研究大会

第11回地域包括ケア推進病棟研究大会

【特別公演】

特別講演 地域包括ケアに求められる総合診療医

草場鉄周 

それでは、基調講演に続きまして、特別講演という形で演題のほうを進めていきたいと思ってございます。

今回、「地域包括ケアに求められる総合診療医」というテーマを設定させていただきました。

このテーマはですね、先ほどの香取先生の講演を聞かれた皆様には御理解いただいていると思うんですけれども、やはりこれからの高齢者医療のニーズの中で、包括的な診療を提供できる医師として、総合診療能力を持つ医師を育てなければいけない。これは共通の理解になっております。そういった総合診療医をいかに養成してきたか、そして、総合診療医が地域でどう活躍しているのかをぜひ知っていただければと思って、セッションを組ませていただきました。

今回お話しいただきます、山城清二先生を御紹介したいと思います。

山城先生は現在、沖縄県糸満市にある西崎病院の院長をされておられますけれども、実はですね、長らく富山を拠点に、富山大学の総合診療部の教授というお立場で、北陸において総合診療の拠点を養成し、そして多くの若手の総合診療医を養成してきた、この業界の中でもレジェンドというか、非常に重要なお立場の先生と私は理解をしてございます。

先生は1984年に佐賀医科大学を御卒業されて、その後、幾つかの病院で研修を積まれた後、佐賀医科大学の総合診療部に入局され、トロントやハーバードなどでたくさんの学びを修められた後に、2004年から当時の富山医科薬科大学附属病院の総合診療部教授として御活躍をされました。

1990年代、2000年代という、総合診療がまだまだ日本の中で知名度が非常に少なく、各地にぽつんぽつんと拠点がある中で、北陸で先生が築かれてきた業績は大変すばらしいと私は思ってございます。今回の講演をしていただくにあたって最適な方ということで、今回お声がけをさせていただいた次第でございます。

それでは、山城先生、講演のほうよろしくお願いいたします。

地域包括ケアに求められる総合診療医

山城清二 

草場先生、ありがとうございます。

私、昨年から、出身地の沖縄で、両親の地元、糸満市というところで慢性期病院の院長をしております。それまでずっと富山が長く、そこでの話です。

今回、テーマをいただいたときに、地域包括ケア病棟に求められるって、「病棟」というのが入っていて、まだ始めたばっかりなので、地域包括ケア病棟云々っていうのはそんなに知らないので、それを外して、地域包括ケアに求められる総合診療医の育成という話にさせてくださいということになりました。

基本的に、私の医師人生が、総合診療を求めて、総合診療で終わったという感じなので、その流れの中で地域包括ケアというのをお話しします。

2つの柱があります。1つは、医療崩壊した富山県の南砺市の試みの中でいろんなことを学んだこと。それから、大学の中で総合診療医をいかに育てたかということです。現在の状況、先ほどの香取先生がお話しされた状況が、まさに今、総合診療医が求められる時代になったなということで、そのことについて最後少し述べたいと思います。

それでは、スライドを使って。

最初に、結語から言います。先ほど、医療のニーズ、いろんなニーズ、ニーズという言葉が出ていましたけれども、私も社会的ニーズに対応した総合診療医をその時々で育成してきたつもりです。

私は大学を卒業して、地元の県立中部病院というところで4年間研修し、それから離島の石垣島で1年間勤務。当時は総合診療という言葉はなかったけれど、ジェネラルができる医者ということで、中部病院で救急とジェネラルというキーワードで研修を始めました。その後、佐賀医科大学に移り、それから富山大学に移った、ここら辺のところを簡単に紹介します。

卒業してから、地元の、私の出身地の中部病院はアメリカ式の研修病院で、2004年の初期臨床研修制度のモデルになった病院と言われています。多科ローテーション、そして内科を選んで、最後は救急をやりました。4年間研修後、離島義務があり、1年間石垣島の八重山病院に行きました。

そのとき求めていたジェネラルができる医者ということで、内科医として行ったのですが、ここで診療所勤務や訪問診療も始めました。このときは社会的入院をどうするかということで、自宅に帰ってもらおうということの訪問診療でした。それから、離島ですので、急患輸送をやりました。このときに、きちっと救急をやっていてよかったなということを感じております。

その後、救急医がいないということで中部病院に呼び戻され、4年間救急医療をやりました。10年目に佐賀医科大学へ、当時、福井先生がアメリカから帰ってきて総合診療を立ち上げたということで、当時の中部病院副院長の宮城征四郎先生から、「大学病院に総合診療部ができたぞ。おまえ、手伝いに行くか」と声がかかって、いろいろ悩んだ末、行くことに決めました。結局、ジェネラルという言葉で総合診療は一緒かなと。ただ、総合診療は何ぞやということは全く分からずに行きました。

もう1つ、ニーズっていうことでは、大学のニーズは論文を書きなさいということだった、英語の論文を。そのときに福井先生に言われて、中部病院のケースを論文化。英語の論文を書かないと大学は業績にならないのでそうしました。ニーズというのはその時々で異なるということです。

大学に移って、総合診療とは何かいうことが分からなくなりました。福井先生はもともと内科医なので、循環器内科医で留学から帰って来てから総合診療を始めた方でした。私は、沖縄県立中部病院にいた時に、救急でトロントへ行く準備をしていたのですが、そこで総合診療に変更し、準備をしました。簡単に行ったわけじゃない、試験を何度も何度も受けて、やっと通って。カナダの医師免許試験は合格したのですが、英語試験がなかなか通らず、向こうに行ってから合格し、クリニカルフェローになりました。留学に際しては、二代目の小泉教授にお世話になりました。

このときに、ジェネラル、総合診療というのは総合診療内科だということだったんです。後から家庭医療というのが出てきます。そして、当時はEBMとか臨床疫学ということで流行っていましたので、大学院はハーバードへ臨床疫学で留学しました。

佐賀に帰ってきたら、大学は医学教育ブームになっていました。医学教育では、EBMとかOSCEとかチュートリアル教育ということで、ハワイ大学で研修を受けてきました。それから、大学も僻地の病院を応援するという雰囲気が少しずつ出てきたので、北海道の病院とか福岡県の離島の応援をしました。その間に、大学でしたので、医学教育の英語論文を書きました。

卒後20年目に富山大学に総合診療科が新設されたので、初代の教授として赴任しました。そのときのニーズは、2004年に開始された初期臨床研修制度をどうするかでした。大学も医者が少しずつ減り初期研修医が減っていたので、そこをどうするかということ。それと、地域連携をやってほしいということで、それぞれの役職につきました。

2020年、17年目にこのスライドをつくったのですが、総合内科、救急、それから教育ということをやっていました。どうも日本で求められているのは家庭医療、プライマリ・ケアじゃないかなということで、2004年に富山大学へ赴任したときに、私はイギリスのプライマリ・ケアを見学してきました。どうも日本に足りないのはプライマリ・ケア、家庭医療だと気付き、地域に出ていくということを意識しながら研修医育成をしていました。

これがプライマリ・ケア連合学会、草場先生が理事長をされている学会の理念ですけれども、基本的にいろいろな疾病を診るということと家族を見るということ。もう1つ、地域のニーズに応えるということで、保健・医療・介護・福祉の連携ということを言われました。患者さんを診て、家族を診て、地域全体を診るというのが当時はまだよく分かっていなかった。それで少し、大学でしたので研究も入れるっていうことでした。

こういうときに大学の総合診療医をどうやって育てるか、人をどう育てるかということで、まず人を集めないといけない。それから、診療体制を整えて教育体制。そこまではできたのですが、地域貢献をどうするかと。そして最後に研究。私は臨床のほうから入ったので、研究志向はあまりなかったのですが、大学ではそれを求められるようになりました。

地域貢献に関しては、結局、私のほうから求めたのではなくて、地域のほうから求められました。

2004年に臨床研修制度が始まり、そうしたら大学医師の引き上げ問題。そして、その頃は市町村合併が始まった時期です。南砺市は、ちょうど2004年に町村合併が始まり、幾つかの病院の統廃合や、ここに出ている福野病院という50床の病院が診療所化になり、もう1つの診療所は休止になりました。それで、市民病院の医者は、大学の派遣が止まったので医師不足になり、当時、新聞でいろいろ騒がれました。この時に、ちょっと支援してほしいという依頼が南砺市のほうからありました。

そのときのキーワードは、後で出ますけれども、人材育成と住民の理解/住民参加型ということです。

これは当時、2008年の新聞ですけれども、いろんな地域で騒がれた独法化や、山形の病院の統廃合とか、いろいろ掲載されていました。

その中でちょっと気になったのが、住民との対話ということで、岩手県の藤沢町民病院ですね。もともと知り合いだった佐藤元美先生の記事を読んで、やはり住民を入れないといけないと思いました。

城西大学の伊関先生が当時いろんな本を書かれていて、その本の中で、やっぱり医療人を地域で育てることと住民に理解してもらうという、そういう2つの視点が大事だということで、これをキーワードにしました。

もう1つは、住民の目的は何なのかということで、これは自治医大の地域医療の本を読みますと、地域社会の住民の幸福を目指しているのが地域医療だと。その中で、地域というのは政治、経済、文化、そして健康・医療というので、我々は健康の側面を守るんだということで、なるほどと思いました。

最初に、前の前の院長、倉知先生、もうお亡くなりましたけれども、この先生から依頼があって、南砺市の崩壊した、医師も看護師も減っている地域をちょっと手伝ってくれないかとお願いされました。もう一人はその次の院長で南眞司先生ですけれども、一緒に地域医療再生の取組を始めました。

まずは講演会活動からです。キーワードをですが、とにかく南砺市というところで人を育てる。これは医者だけじゃなくて、看護師やいろんな医療職を育てる。それから住民も自分たちで考えるということをやりました。

もう1つ、後から振り返るとこれがすごくよかった。50床の病院が潰れたんですね。市のほうから、医療機関として潰すわけにいかないから手伝ってほしいと。それを診療所化して、私が週1日手伝いに行った。常勤医を採用しましたが、辞めてしまって、2010年から、経営は南砺市、私が運営、総合診療部の医局員を派遣して運営しました。

当時、初期臨床研修センター長をやっていまして、教育のあるところに人は集まると言われていたので、ここの診療所を人が育つ、特に学生研修医の研修の場にすることを南砺市に言って、教育は赤字ですよと言ったんですけれども、それでもいいからとにかくやってほしいと言われて、始めました。

名称は、family community medicine。これは、トロント大学の家庭医療の名前がdepartment of family and community medicine、それを取って、家庭・地域医療センターという名前をつけました。教育機関に将来なるかもしれないということでつけたということです。

2008年頃訪問診療、全国の国立大学の教授で訪問診療をやっているのは、当時私だけだったんじゃないかなと思っています。このスライドのように訪問診療を始めました。

大学でしたので、外部資金を取ろうということも言われ、仕組みづくりためにマイスターという名前をつけて、医療人を育成する、住民を育成するという企画を文科省に出しましたが、不採択。新聞ではいろいろ注目されましたが。なぜ不採択かというと、業績がないと言われました。このポンチ絵を使っていろいろ講演会活動をしながら、それぞれの方々が自分なりに地域の課題を考えて行動しようということでやりましたが、不採択でした。

最初は福野という場所だけでやっていたのですが、あるときに、「先生、いろんな所を回ろう」言われて回り始めました。すると、地域の婦人会の方が参加するようになりました。つまり、出張講演みたいなことをやりました。それから、市議会議員の方にも話をしました。市長はすごく熱心でしたので、市議会の議員の皆さんも地域の課題についてすごく考えるようになりました。

2年間やり続けると、何か課題は分かったけれども、次の行動をどうしていいのか分からないということを言われて、次の対策をちょっと悩みました。

その頃偶然、北陸先端科学技術大学院大学、JAISTというところから小林俊哉先生が赴任して来られました。小林先生は地域の地場産業、石川の地場産業を大学院が一緒になって復興させるという活動をしていました。地域再生システム論とか、知識科学を使って企業を元気にすると方法論。たまたま会議の席で隣同士になって、「それって何ですか」といろいろ話を聞いて、JAISTのホームページを見て調べて、「医療に適用できないか」と話をしたら、「やったことないけれども、おもしろそうだからやりますか」となりました。2人で立ち上げたのが地域医療再生マイスター養成講座。

これは講座形式で4回、最後の5回目は発表会という講座。最初に来ていただいたのは仲井先生です。仲井先生が当時、芳珠記念病院で同様の講座をされているということで、以後仲井先生は5、6回来ていただきました。

ここでおもしろいのは、住民の代表、婦人会、それから医師、看護師、医療職がみんな集まってやる。今では普通にやれていると思うのですが、その時は、市が主催でやりますので、今後大事な会になるので、成功のために全てエース級の人材を出してほしいと頼みました。

この講座は、何かをやるときに方法論を学ぶということで、芳珠記念病院、仲井先生の話を聞くと、えっ、こういうことができるんだとか。あともう1つ、方法論を習ってみんなが集まっていろんなことをわいわいがやがややるっていうのは意外と楽しいんだなということで、これは続くかもしれないと思いました。

1つは、近藤修司先生、経営コンサルタントですけれども、企業を元気にする方法で、四画面思考法っていうのは後で出てきます。私もこれに沿って、第1回目の発表会は、総合診療医を富山大学に立ち上げたときに、どういう総合診療医を育てるんだと、じゃあ具体的に3年後何を目標にするかいうことを、四画面で考えて発表しました。

もう1つ言われたのは、改革の輪という言葉です。いろんな方にいろいろ輪を広げたらいいですよと。そこで、南砺の地域医療を守り育てる会というのを立ち上げました。当時、小児科を守り育てる会とか、地域医療を守り育てる会などあちこちでできたのを、南砺市もそのように倣ってやりました。グループ活動を中心に、まずは医療職が頑張る。

その会の位置づけ、地域医療の目標で、住民の幸福を目指すものなので、その活動の中で、我々は健康的な側面から住民の幸福に貢献するんだということを言いながら活動しました。

2010年の2月に第1回目南砺の地域医療を守り育てる会を開催し、小児科の細谷先生、その後も地域のことに関わることをやっていた先生方を呼んで活動しました。

この活動が10年経って、このような流れ、リズムができたんですね。毎年秋にマイスター養成講座を3か月かけてやり、そして、3 か月毎に南砺の地域医療を守り育てる会で集まり、そして各グループ、医師・看護師グループ、住民グループ、行政が活動の発表をしながらずっと10年間続けました。そうしたらこの仕組み、ネットワークが南砺市の中でできました。

大事なのはグループ活動で、もともと医師不足、看護師不足だったので、ここをどの様に対策するかということで、活動しました。私は全部の取組に参加してアドバイスをしていました。

活動の後半は、南砺市まるごと支え合い会議ができました。この会議がおもしろかったのは、毎月1回、私が司会をし、行政の方々といろんな方々、仏教関係者、南砺幸せ未来基金の方、住民で守り育てる会の方々と一緒に、これからどうするかということを話合いました。これが意外と機能しました。

10年間の活動がなぜうまくいったのか。後半、何か楽しいけれども何でうまくいっているのだろうかと調べたら、まず顔を合わせる場ができたとか、意識改革、行動変容。3年間我慢してやったと、5年目に成果が出たということ。

それは、それぞれのグループ活動も毎回発表するのですが、一番衝撃を受けたのは、南砺市民病院で5年間で医師が10人増えましたということを院長に言われたことです。

グラフの黄色が総合診療医で、ブルーが初期研修医です。大学が基幹病院になるけれども、初期研修医制度をこの小さな病院で立ち上げて、若い人たちが育っていったと。さらに10年間で倍増したのです。それから、訪問看護も勉強会を立ち上げたら、看護師が倍増しているのですね。さらに、介護士の初任者研修というのを南砺市は開始し、これも手伝ってやりますと、介護士さんも増えていったという感じです。この衝撃は大きくて、5年間でこれだけ増えたということは、この会が盛り上りやり方に間違いなかった。

住民の人たちは、まず、婦人会グループが認知症対応でいろんなことを始めました。認知症の回想法を勉強しに行って、それを始めたのです。その後、地元の方々が食事会、いろんなサロン活動。そしてフレイル対策を始めたりしました。これも活動が活発になった。

それぞれ毎回発表するのですが、行政の方がまとめる報告書ですが、私が原稿を書いて、まとめもらいました。これを10年間やりました。前半の5年間で医師・看護師が増えたので、「もう医療崩壊っていう言葉も似合わないので、活性化にしませんか」ということで、地域活性化と名前を変えて後半の活動をやりました。

毎年3回の守り育てる会の講演会なので、10年間で30回やりました。この中では、全国で活躍している先生方が、意外とこの会に興味を持たれて、来ていただけるようになりました。

5年経過すると南砺市は何か変わったことをやっているということが県内に広がり、富山県のほうから、当時の地域医療再生基金の中で、富山県の1つの活動として、このマイスター養成講座を4市町村で広げてほしいと依頼され活動が広がりました。

10年間やると、大体飽きてくるのですね。というのは、マイスター養成講座って1回しか受けられないので。ところが、だんだん顔ぶれが変わってきて、次はリーダーを育てようということになり、コミュニティ・メディカルデザイナー養成講座へ。なぜデザイナーという言葉が入ったかは後で出てきます。

コミュニティ・メディカルデザイナー養成講座は2019年から始めたのですが、2020年後はコロナで中断、中断、中断で、やっとの思いで。写真を見ると、マスクが多いのですが、なんとかこのような形で継続できました。

合わせて13年間の活動ですが、なぜこういう活動ができたのか。

後で本題の総合診療医の育成という話に出てきますが、地域医療の崩壊を防ぐ、その活動に、経営コンサルタント、企業の方の考えを入れました。四画面思考法という。現状分析(SWOT分析)、それから10年後の理想の姿を考えて、何のためにやっているか。そして、とりあえず3年後はこういうことを、例えばプログラムを立ち上げますとか。さらに、毎日何をするのかという思考法を習いました。このとおりに3年後、5年後の目標を達成できた。ただ、理想の目標は変わらなかったです。10年の目標。もう1つは、先ほども言ったように輪を広げなさいということでやりました。

この時に企業のSECIモデルというのを知ることになりました。野中郁次郎先生といって、この方も企業のコンサルタントですけれども、暗黙知を形式知、こういう場をつくって学んでいくのが大事だということを企業のほうで言われていたのを、同じようにやってきた。

場の理論というのがあって、これは長谷川敏彦先生に「君のやっているのは場の理論だ。マイスター養成講座は場の理論だ」と言われて調べたら、場の理論、この講座のつくり方をいろいろ書かれていたのが、野中先生が書かれていること、そのとおりに近いやり方でやっていたということです。

もう1つ、コッターの変革理論。

これは、私がトロントに留学していたときの指導医だったAbrams先生を講演で来ていただいた時に、コッターの変革プロセスって知っているかと言われて、このスライドをもらいました。

コッターのイノベーションですが、このときは分からなかったです。高齢化率は日本より低いけれども、トロントも医療の改革をしないといけないということで、こういうことを考えながらやっているのだと言われました。

コッターさんって有名な方で、日本語での本もたくさん出ているんですね。最初は「何のコッター」という感じだったんですけれども、私の活動にそれを当てはめてみると、そのとおりにやっていた。「何のコッター」が「何てコッター」という感じになって。――今日は誰も笑ってくれませんけれども、「何てコッター」って感じで、これは変革理論に沿っているということで、途中から我々の活動は成功するかもしれないっていう自信を持ちました。

もう1つ言われたのは、デザイン思考です。

Abrams先生のスライドの中に、デザイン思考を取り入れているんだよと。医療だけではなくて、いろんな方々のアイデアをもらいながら変革をする。2018年にAbrams先生のところ、トロントへ行って、見学してきました。OpenLabという研究所を主宰して、ここにデザイナー、プログラマー、若手研究者が加わる。いわゆる臨床研究だけではなくて、地域のいろんなアイデアを出して、イノベーションについて研究しているということを教わりました。

そのときに、デザインのことを富山大学のデザインの教授にお話ししてもらったのですが、昔は生活デザイン、物のデザイン、その次は商業デザイン。今は個と関係性のデザインというのをつくるのだと。これがデザインだと、なるほどということで、このデザイン思考を取り入れながらやりました。

あともう1つは、地域包括ケア。

途中で地域活性化に向かっていったので、地域包括ケアというのを正しく理解しないといけないというので、13年間の5年目に慶應大学の堀田聰子さんを呼んで、正しく理解しようとしました。

先ほど何度も出てきた2025年問題ということです。これに沿って研究会が報告書を出していたのを、分かりやすく住民や医療関係者に話をしながらやってきました。

今年は2025年ですけれども、いかがでしょうか。後で現状をちょっと報告します。

また2017年に、2040年の共生社会ですって言われて、どんどん延びていくんですね、国の方針が。共生社会というのは地域包括ケアシステムを基盤にしてつくるものだということで、2040年問題というのが5、6年前に言われていて、だんだん延びたなと。確かに、言われてみると、団塊の世代の人たちはまだ元気ですね。

報告書にはやはりデザインしないといけないんだということが書かれていて、参加と協働、それからインクルージョン、こういうような言葉が出てきました。これは、皆さんもいろんなところでよく聞きますね。これを言われていたのが5年ぐらい前ですね。我々がやっていることは、もうこれに沿ってやっているなと。

OECDのデータで日本は80歳以上の人口が世界トップです。韓国が追いついてきそうです。日本が80歳以上の人口はずっとトップで、韓国が追う。あとは全部低いままということになっています。

地域包括ケアを途中から学び始めたんですけれども、その頃に、猪飼周平さんという一橋大学の先生に講演してもらいました。「病院の世紀の理論」から、治す医療から支える医療にもう向かっているんだということを10年ぐらい前にお話しいただいて、ああそうなんだと。

恐らくこれからは少子高齢化、医療費の抑制で、病院に入院する人はどんどん減ってきますと。それから、施設に行きます。でも、施設もいっぱいになって、在宅に行きますよと。ところが、この猪飼先生が言うには、「でも、患者さんは在宅の方向に行きたいんですよ。みんな自宅に帰りたいんです」と。我々は生活支援をするという方向で、保健師と看護師、これからは在宅医療が大事になりますということを言われて、これからは地域包括ケアが大事だということを言われて、なるほどと。

もう1つのなるほどは、地域を強化するということで、小規模多機能自治。地域が弱いところにはなかなか難しい。皆さんのところはどうですかね。地域が協力しているところはやりやすいけれども、そうでないところはなかなか難しい。あと、包括、多職種連携。いろんなテーマがあって、多職種連携の時代ですよと、これも言われていた

もう1つ言われていたこと。ケアというのをもう一回考え直したほうがいいですよと。ケアというのは、今皆さんの対象は高齢者だけですけれども、皆さんの周りに障害のある子供、家族、それから育児をしているお母さん、産後うつで悩んでいるお母さんたちはいませんかと。今こそ高齢者のケアを出発点にして、全世代のケアを考える時代ですよと言われた。これは目からうろこなんです。

総合診療って高齢者ばっかり。皆さんも感じませんか、下っていくケアなんです。やってもまた戻ってくる。ところが、若い人たちのケアってどんどんどんどん上がっていくケア、元気になっていくケアなんですね。下っていくケアの苦しさを感じていたところに、あっ、そういうことかと、ケアが大事だということで、この本を読んだらどうですかと言われた。

これは看護系では有名な本らしくて、「ケアの本質」という哲学者の本。ケアとは何ぞや。これは医療のケアだけではないんです。いろんなケアなんですけれども、そのときに書かれていたのが、人をケアするっていうのは、自分が人として成長し実現することだと言われて、なるほどと。他者の成長を自分が助けることで自分が成長する。これは子供とお母さんの関係と一緒です。子供が成長すると親が成長する。それが哲学なので、地域をケアするということは自分も成長する。芸術もそうらしい。音楽、絵を描くことによって自分が成長する。ケアというのは、自分に返ってくるんですよということを言われた。いわゆる高齢者医療のケアも自分に全部返ってくるんだということで、少し気が楽になった。当時から真剣だったのですが、気分的にすごく軽くなり、これは正しいことをやっている、ケアの文化を創造しましょうということです。

これは余談ですけれども、実はこの頃、富山市の前の市長から、富山市で一番の中心市街地に高齢者が一番増えるというので、在宅の診療所をつくってほしいと言われました。市長に、「つくってもいいですけれども、10年、ある程度になったら高齢者は少しずつ減りますよ」と。「ケアの本質」を読んでいたので、その代わりにケアの文化ということで、産後ケアの必要なお母さんのケア、それから障害児のケア、住民の人たちが集うケアの総合施設をつくったらどうですかと。その中の診療所に3人医者を派遣しますということで話をしたら、これがとんとん拍子に実現していった。

そしてできたのが富山市まちなか総合ケアセンターです。我々は3人の家庭医を派遣しました。その3階には、産後ケアをやる、お母さんが疲れたら休めるホテル並みの部屋。それから、2階に病児保育室、1階には障害のある方の相談室、あと、地域のサロンというのをつくった。これは画期的な施設でした。

それからもう1つ、デザインという話が出てきます。このときは、山崎亮さんという有名な方を、堀田聰子さんが「先生、あの山崎亮さんを紹介するから、一度話を聞いたほうがいいよ」と言われて、講演してもらったんですけれども、やっぱり住民が参加しないとなかなかその地域に未来ないですよと。参加するためには、楽しさがないとだめですよと。楽しさなくして未来なしという言葉を書かれていて、なるほどということで、デザインの話。

トロント大学の先生もデザインと言ったので、コミュニティをメディカルでデザインするという講座をつくってやったのがコミュニティ・メディカルデザイナー養成講座です。これはリーダー養成研修です。

2020年のコロナの話です。私は、富山市の老健クラスターの中にいろんな理由があって対策に入ったのですが、このとき全国で報道されました。なぜ入ったかという理由はですね、今までに富山市の中でいろいろな活動をし、先ほどのまちなか総合ケアセンターのすぐそばにクラスターを起こした老健があったんですね。ですから、地域のつながりの中でコロナ対応ができた。連携してですね、その後2年間コロナ対応のほうもやってきた。

これは当時のスライドですけれども、これが2020年4月に老健のクラスター、当時は全然薬もなくて、こんな格好(防護着)で1か月間対策に入りました。

住民の方々も知り合いばかりだったので、住民の方にいろいろ話をしてやりました。すると、マイスター養成講座の富山市のいろんなまちづくりの方々が、一緒にネットワークをつくろうと、介護系のネットワークをつくろうと。そして、もう1つはですね、歓楽街、商店街のほうにもコロナが広がって、この方々も一緒にこういう活動をしていたので、自分たちも一緒に加わってコロナ対応のチームをつくりたいということで、私が提案して、やりましょうということで活動しました。

これが画期的なのは、2020年の11月に各店を回っていわゆるコロナの対策を。あと、こういうキャバクラではないんですけれども、フィリピンパブだったかな、そういうところも回って。歓楽街の組合長がぜひ回ってくれないかと、もう今店が潰れそうだということで、コロナ対策に回りました。

高齢者の施設のほうからも対策の応援依頼が来るんです。というのは、もともとマイスター養成講座の仲間は医療福祉介護系の人たちなので。障害者施設からも依頼がありました。2022年までにかなりの数の施設を回ってコロナ対応を。つまり、地域包括ケアの中で、私が入り、あとからいろんな方が応援したという感じです。

さて、勤務は大学なので、大学のニーズで論文化しないといけないということで、ちょっと遅まきながら、人が増えたということを南砺市での活動を論文化しました。私のやっていることは、コミュニティベースと地域ベースのリサーチなんですね。それを新しい方法論で、realist approachということで少し英文的に並べて、2023年に「BMC」というイギリスの学会誌に掲載されました。

当時その他のキーワードは、ウェルビーイングとか社会教育とかSDGsというのがあって、これが我々の活動のいろんなことで関連しているんですね。SDGsの医療のところを見ると、自分たちがやってきたことなんですね。

それから、社会教育のマイスター養成講座も教育で、このとき実践コミュニティという言葉があって、後で出てきますが、これをやっていたということなんですね。

看護師に対しては、訪問看護師が勉強会をやりたいということで、それから養護教諭も。さらに看護大学院のほうでも教育をやっていたら、NPコースができたんです。大学で医学生の教育で実習をする施設があるので、それを使って、看護師さん達へ診察法等の勉強会をやりました。

それを看護系の大学院生がインタビュー形式で論文にまとめました。養護教諭の教員も同じような、こんな感じで毎年2回ぐらいやって、それもインタビューして論文化しました。気がついたことは、こういうコミュニティをつくったということですね。これはただの地域ではなくて、活動するコミュニティ、実践コミュニティというものです。

総合診療科のお話の中で、「おまえ、大学で何をしていたのか」って最初の頃言われたんです。外でやっていて、大学で研究しているのかと。「いやーっ、地域貢献しています」って言いながら。でも、後からは「いろんなことで頑張ってるな」と言われたんです。

結論からもう一回言います。総合診療医の育成も、ニーズに合わせて育てないといけない。医療のニーズというより、社会的ニーズ。大学でも総合診療医には、地域貢献というのが課題になってきたんですね。それに沿ってやりました。

もう1つ、やっぱり地域に出ていく家庭医療ですね。2のGIM(総合内科)、3のER(救急)、4のその他は大学の中でできるんですけれども、1のFM(家庭の医療)は意識してやらないとだめ。最初は医局員は3人だったのですが、後に30人以上集まった。

あと、もう1つは、プログラムをつくるというのが大事。人を育てるプログラムをつくった。それはプライマリケア連合学会ですね。2010年に草場先生が2代目会長に、その前に総合診療医学会、プライマリ・ケア学会と家庭医療学会が連合学会をつくった。連合した時にプログラムをつくりましょうって、ここで最初につくりました。そのお陰で医局員が意外と入ってきたんですね。プログラムをつくると入ってきた。これがNANTO家庭医養成プログラム。そのやり方は、大学の中につくるのではなくて、ベースは南砺市民病院で、この基幹病院が大学になる。地域の現場で研修をすると、人が増えていった。

もう1つは、基幹病院が、研修できる病院を増やしていった。これが専門医養成制度に繋がり、とやま総合診療専攻研修プログラムへ。

10年ぐらい経って、意外と若い人たちが増えていった。後から考えると、潰れた病院を診療所にして困ったなと思っていたが、ここがプログラムの核になったんです。これがないとプログラムをつくれなかった。だから、やっていてよかったというのは、後から気がついた。ですから、皆さんも、いろんなことでニーズと言われてやるんですが、後からいいことがあるんじゃないかなと私は思っています。

もう1つは、富山市のことをやっていた寄附講座があるんですね。前の富山市長、森さんですけれども、この方が寄附講座をつくってあげるからと。「先生、まちなか診療所に医者を派遣するのも大変だろう」ということで、寄附講座をつくってもらいました。これが非常に注目された施設です。3人家庭医を派遣し、診療所を中心にやりました。

もう1つ大きなことは、文部科学省から外部資金をやっと取れたこと。リサーチマインドを持った総合診療医の養成拠点、2013年に全国の15大学の中に、総合医の育成の拠点として選ばれたんです。

そのときに、このポンチ絵ですけれども、こういうような人を育てますというので一番評価が高かったのは、後で評価者に言われたんですけれども、南砺市で医療の再生のことをやっていて、この業績があったから選ばれましたよと。ああそうですか、なるほどって。やっぱり後からこういうのが生きてくるんだというのを非常に感じました。

この中でのプロジェクト、いろいろなプロジェクトをやりました。一番大きかったのは、トロント大学から講師を、家庭医療の先生、それから医学教育の先生、総合内科の先生を呼んだこと。それから、若い人たち3人を毎年、トロントで2週間の短期研修、家庭医療研修に行かせていました。ところが、2020年からのコロナ禍で中止。

教育もそうです。これは内科外来診断のピットフォールですね。総合診療といったら、皆さん、診断学。今いろんなテレビでやっていますけれども、これがベースでもあるんですけれども、こういうこともやっています。

また、大学の救急も大事だった。まだまだ救急がなかなか大変なので、総合診療と救急と一緒にやっていました。やっぱり高齢者の受診が多い。大学でも多いんですね。それで専門科に振れない場合は総合診療科、そして地域の病院に帰すということをやりました。いろんな複雑なケースが増えてきました。

現在、糸満市の西崎病院というところで、経営者ではないんですけれども、理事長でもないんですけれども、病院長をしています。ケアミックス病院で、慢性期と一般病院、透析もやる。皆さんの病院ではどうか分かりませんけれども、まだまだやらされ感いっぱいの病院で、どうしていいかということで、今いろいろ変革をしているところです。

教育不足があります、人材不足です。

もう1つ、地域包括ケアの中ではですね。2025年問題で、高齢化が進んだところなので、認知症の人が一人で住んでいて、包括ケアのケアマネジャーが困っているんですね、これをどうしたらいいのと。

最後のスライドですが、結局、この慢性期病院の中で、介護施設からの、コロナのときも入院させて施設へ帰す、それから急性期では下り搬送で、「先生のところ、取ってくれないか」って、いろいろな依頼がくるという流れが大きくて、ここをどうするか。今感じているのはですね、この中心には、やっぱり総合診療医が必要かなということをすごく感じる。

そういう慢性期医療の場をまだ大学では提供していないので、これから若い人たちはもっと経験して勉強しないといけない。中堅クラスがどのような形でこういうような病院、医療環境に来るかというのを考えないといけない。最終的には、これが結語です。やっぱり社会的ニーズを考えて総合診療医を育てながらやっていくというのが大事かなということです。

以上です。

御清聴どうもありがとうございました。

草場鉄周 

山城先生、ありがとうございました。

本当に印象深いお話がたくさんございました。特に、先生が南砺で実践されてきた活動というものが、結果的に総合診療医の育成という場となり、最終的にそこにちゃんと結実した。つまり、地域のニーズに応える活動をすることが、最終的に人材育成にもつながる。そして、医局員もたくさん増える。さらに、富山の中のまちなか総合ケアセンターのような、都市部のほうにも入っていくと。郡部だけではなく、都市部にも総合診療が入っていくことで、本当に地域に必要とされる総合診療医の育成ということにつながってきた。先生の軌跡の中でそれを追えたことで、大変感銘を受けました。ありがとうございました。

それでは、お時間も結構まだありますので、ぜひ御質問などいただければと思いますけれども、いかがでしょうか。フロアのほうから、これをぜひ聞いてみたいというお話があれば、ぜひ、マイクのほうに行っていただければと思いますが、いかがでしょうか。

では、皆さんが考えていただいている間に、私のほうから質問を幾つかさせていただきたいと思います。

大学の総合診療の状況を全国で見ていると、地域で活動するということができているところはほとんどないと感じています。逆に、大学のほうから大学の附属病院で何で仕事をしないんだみたいな形で批判を受けたり、プレッシャーをかけられるような話を聞くことが多いんですけれども、富山で先生がどんどん地域に入って活動することが大学の中で認められてきたというのは、どういう背景があったのか、先生がどういう努力をされたのか。そのあたりをぜひお聞かせいただければと思います。

山城清二 

ありがとうございます。

2点言われた。

1つは、地域貢献というのが大学の使命に入ったことですね、途中から。地域貢献したらポイントが上がる。それから、医局員を増やせということで、医局員を増やすときに、大学の中に人を増やすのではなくて、市民病院に研修医としているのは大学の医局員ということで。そこで育てて大学の医局員とする。それがどんどん増えていった。だから、医局員の数が、最初1人でやっていたのが、15年ぐらいで30人ぐらいになったというのを大学に報告する。だから医局員を増やしたんだなということです。

次に言われたのは、「研究はどうですか」って言われた。「これからです」ということで。でも、研究を地域でやっている。私、基本的に研究は地域でやっていること、いわゆる生物学研究ではなくて、定性研究を含めてやっていること。本当に大学勤務が終わる頃に、最後にBMC掲載の論文ができたんです。あれがもうちょっと早ければ、大学でもうちょっと大きな顔ができたんじゃないかなと思います。

その2点です。

ただ、やっぱり大学は、先生がおっしゃるように苦労しています。地域の病院が応援しない限り、大学の総合診療医っていうのは専門診療科にはかなわない。

もう1つ言われるのは、「稼いでいるか」って。大学の中で稼いでいるかって言われたら、教授会で、「いや、稼いでいないけれども、人は育てていますよ」ってぼそぼそ言いながら。

研究と稼ぎ、大体言われるわけです。それでちょっと、半分苦しい思い、半分は頑張ったねっていう。そんな感じでやってきました。

草場鉄周 

ありがとうございます。

相当御苦労もあったのではないかなと。

実際に、そういったプレッシャーで総合診療の講座がなくなっていったような大学もあり、例えば北海道大学にもかつては総合診療部があったのですけれども途中でなくなって、非常に残念だったところもありましたので、先生が富山で総合診療部を守ってこられたのは本当にすごいことだなと思ってございます。

山城清二 

今日の香取先生のお話を聞いて、今、私ケアミックス病院の院長をしているんですけれども、総合診療医をどう増やすかということでここ半年ぐらい悩んでおります。

1つは、在宅医療を1人の医師でやっている、そこを増やそうと。在宅医療から、いわゆる地域包括ケア病棟って4床しかなくて、一般病床で回しているので、あと慢性期病床。だから、そこで人を増やして、そこを強化しようかなと。若い人たちをもう1人2人ぐらい増やして、在宅医療をもうちょっときれいにしようかなというのを思っています。

それから、学生の教育、実習を受けようかな。今、琉球大学の地域枠の金城紀与史先生という先生から依頼されて、高齢者施設、老健や特養や障害者施設もあるので、それを見学だけでもいいから3年生4年生に見せてほしいと。一日研修ということで、大学のほうもそういう場を求めているので、来年からそれを16人受けるようにしています。若い人たち、特に学生は手がかかるんですね、手も時間もかかって、結局残らないということがありますが、そこから始めて。

それから、総合診療のプログラムがないので、プログラムをつくるとすると在宅しかできないので、在宅医療が取れるプログラムはつくれるかなということ。

総合診療のプログラムは無理なので、それはどこかと連携してやると。だからそういう場をつくって。先ほどの香取先生がおっしゃったような方向性が国の方向だと、これがニーズだと。国というよりは、本当の地域のニーズを国が言っているというのを理解して、それに沿ってやっていくというのが。

だから、人を集めるのにあと1、2年はかかる、――3年ぐらいかかるかな。先生が家庭医療から始めて帯広の病院まで総合診療を広げたということで、先生にもずっと注目していました。やっぱり家庭医療から広がって病院に行ったと。私は、大学と連携して、最後に、高齢者病院をどうするかっていう課題へ、今、私も高齢者になりましたので、自分のことのようにやっています。

以上です。

草場鉄周 

ありがとうございます。

もう1点、先生に。

今お話しいただいたところにまさに当てはまるんですけれども、北海道で私やっていますが、やっぱり医師不足、医師の偏在の問題。どうしても都市部に医師が集まり、郡部にはなかなか医師が来ない。病院の経営も、医師の数にかなり影響を受けるので、非常に大変であると。なので、ぜひ総合診療医を養成して、何とか町の病院にも送ってほしいみたいなお話をたびたび受けます。ただ、実際、若いドクターの話を聞くと、やっぱり学べる場、成長できる場に行きたい、そしてただ労働力として使われることは嫌だって言う若い先生が非常に多くなってきたと最近非常に感じるんですね。20年前と大分変ってきている。

先生はたくさんの若い先生を富山の拠点に集められたと思うんですけれども、そういった若いドクターを集めて教育を提供するということの背景に、学ぶ楽しさみたいなものもあったと思うんですけれども、どういった形で先生は若い方を呼ぶのに工夫されたか。そのあたりもぜひ教えていただければと思います。

山城清二 

2つあるんです。

1つは場をつくる。診療所なんです。だから、南砺市で潰れた50床の病院が診療所になって、ここが核になってプログラムができて、今でも常勤医でやっている。それから、まちなか総合ケアセンター、富山市のど真ん中に総合的な、そこに在宅をやりながらやっている診療所がある。それから、南砺市の、もう医者がいなくなった1つの診療所が五箇山のほうにあるんですけれども、そこにも若い人が行くと。そういうところが少しずつ出てきているので、そこに行かせると。

もう1つは、ただ行かせると大体バーンナウトしますので、地域と住民の人たちにちょっと応援してもらうということで、先ほどの地域包括ケアのケアの本質、ケアの文化と言うことですが、そういう文化とか方法論を学んで、そこへ行ったらその地域の病院の応援もあるし、住民の婦人会や応援があって、そこの人たちと一緒に何かをやりながら、病院医療だけじゃなくて、地域包括ケアの中の考え方も学べるんだということ。意識の高い子たちは、そこで今、それぞれの診療所、それこそマルモもそうですし、総合ケアセンターでも。そこで診療だけやっているわけじゃなくて、多職種連携の勉強会を始めたり。

あともう一人は、輪島の小浦君ですけれども、開業したら地震が起こってしまって一回潰れたんですけれども、それを復興しているのは、住民の人たちとの連携ということでやっています。だから、1つは働く場所。皆さんの病院でも、もしクリニックで危ないところをちょっと入れて、そこに若い人たちが行って連携して、そこから地域を見るっていうのが、現時点で求められる、理想まではいかないですけれども、やり方かなと思っています。

草場鉄周 

地域住民の参加型の地域ネットワークということを先生は掲げられていたと思うんですけれども、住民もなかなか最初は参加しづらいというか、医療者に声をかけられても、専門じゃないのでちょっとみたいな感じもあると思うんですが、そこもうまく先生が巻き込まれたのはどういうやり方があったのですか。

山城清二 

住民直接ではないんです。婦人会、老人会、社会福祉協議会の上の人たちがまず集まってやるんです。そのリーダーがいいところは大体一緒になるけれども、リーダーが、自分たち忙しいからってなると広がらない。最初はそういうリーダーの方々と一緒にやることです。

だから、最初に行政のほうに言いました。医療崩壊したら、何でも協力してくれるんです。エースを出してほしいと、それぞれの会のエースを出してください。中途半端にできているところは協力してくれないというのが私の考え。高齢化率の高い地域と困っている場合は協力的です。富山市はちょっと例外でしたが、ふつうは資金が終わったら、「はい、どうも」という感じで終わりますので。最終的にはそれぞれの地域の住民の方々のリーダーとどうやって話し合いをしていくか。

あと、かゆいところ(困っている事)に手を届かせて、かいてあげるというのが1つの方法。それもうまくいく場合とうまくいかなかった市町村もありますので、そこら辺のところかなと。だから、なかなか難しい課題ではあります。

草場鉄周 

危機感が強い状況の中で、ニーズをぱっととらまえてネットワークをつくっていかれたっていうのは、やっぱりすごいなと思ってお聞きしていましたし、行政をきちんと巻き込んでいくというのを、先生はどの地域でも非常に重視されていますよね。

山城清二 

行政の首長の意向です。首長がいいところは本当にまとまります。

あとは、いろいろありますけれども。

草場鉄周 

ありがとうございます。

いかがでしょうか。何かもし御質問などございましたら。まだ少々お時間ございますけれども、いかがでしょうか。

仲井先生、どうぞお願いします。

仲井培雄 

山城先生、ありがとうございました。

私も先ほどスライドに出てきましたけれども、南砺市のほうで関わらせていただいて、その場は非常に楽しく私も過ごすことができましたし、地域住民の人が本当に真剣に南砺市を何とかしようという熱意があったと思います。それをまた先生がうまく醸成されて、ああいう形になって。

そこはいいんですけれども、まちなかセンターのところで、たしかあの後、地域包括ケア病棟を持つ病院を近くに市でつくられましたよね。今回そのお話はされませんでしたけれども、あれとまちなかとの関係性というか、そこがちょっと知りたいなと思って。

山城清二 

あれは私がもう引退した後のまちなか病院ですけれども、そこに彼らは資格を取るために外来をやらないといけないということで外来をやると。それから、富山市民病院に送るのではなくて、そこで入院をということで、今、構想が始まったばっかりで、成功しているかどうか分かりませんけれども、そこの連携が始まっています。

だから、先生おっしゃるとおりで、まだ今後の課題です。彼らがどこまでやるかっていうのがそれぞれだから、連携がうまくいけば、いい、本当のまちなかの診療所になると思います。

仲井培雄 

あれは、そこには地域包括ケア病棟がたしかありますよね。

山城清二 

そうですね。

仲井培雄 

そこと連携していく。

山城清二 

そうですね。あと、市民病院との関係もあるので、そこら辺のところが本当に意識としてちゃんと話し合いができるかどうかですね。

仲井培雄 

これからという。

山城清二 

これからだと思います。私はもうそこにはタッチしていません。

仲井培雄 

ありがとうございました。
すばらしいお話を聞かせていただきまして、いろいろまた気づくこともございましたので、今後ともまたよろしくお願いいたします。

草場鉄周 

ありがとうございました。
それではですね、最後、お話をまとめたいと思います。

先生の実践の中で大変印象深かったのは、やはり人材育成ということと、住民参画型の地域ネットワークの構築ということを重視されて、地域ニーズに応えるような形で医療機関を運営される中で、最終的に成功に至った。総合診療医も同じく、地域あるいは施設のニーズなどにしっかり応えていくということが鍵を握っている。そういったことを教えていただいたと思ってございます。

山城先生はまた新しい取組をこれから糸満市でされるということですので、今後も先生の活動を聞かせていただく機会をいただければなと思ってございます。

本当にすばらしい講演、ありがとうございました。

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