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【シンポジウムⅡ】
【シンポジウムⅡ】
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「地域に寄り添う医療と福祉・介護行政との連携を考える」
【座長】
小山秀夫(兵庫県立大学大学院特任教授)
【シンポジスト】
中島浩一郎(庄原赤十字病院院長)
江角悠太(志摩市民病院院長)
歌川さとみ(東京都千代田区保健福祉部長)
山澤 正(都市再生機構ウェルフェア総合戦略部長)
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〇座長(小山秀夫・兵庫県立大学大学院名誉教授)
シンポジウム2「地域に寄り添う医療と福祉・介護行政の連携を考える」という題でシンポジウムを始めたいと思います。
今回の中井大会長のご指名で、広島県庄原日赤の中島浩一郎先生と、それから三重県の志摩市民病院長の江角悠太先生、地元千代田区の保健福祉部長の歌川さとみ先生、UR都市再生機構ウェルフェア総合戦略部長の山澤正先生の4名にご登壇いただいて行いたいと思います。
全体で約120分です。あまり事前の打ち合わせをしておりません。打ち合わせをしたために盛り下がってしまうといけないと思いましたので、すみません。お一人、20分程度ずつ、お話ししていただきまして、そのあと討論に移りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
では最初に、中島浩一郎先生にお話をいただきたいと思います。「地域医療連携推進法人と地域包括ケア」というテーマです。では中島先生、よろしくお願いいたします。
【講演 1 】
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地域医療連携推進法人と地域包括ケア
中島浩一郎 (庄原赤十字病院院長)
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本日はよろしくお願いいたします。庄原赤十字病院の中島と申します。「地域理療連携推進法人と地域包括ケア」という題です。
われわれの地域にある連携推進法人、そして、当院がさまざまな要因の中、特に当地区は高齢化、人口減少が進んでおります。そうした中で、地域医療構想の実現に向けて病院をある程度ダウンサイジングしていく、病床を減らしていく必要性に迫られております。
今まで、多くの先進的な病院では常識として、いろいろなさってこられた地域包括ケア病棟の機能強化がある。そういうことを、1つのキーワードとして病院の新しい展望を開いていこうという出発点にある。そういう状況と今の当院、まさに存続の要、当地区の医療の存続の要である地域医療連携推進法人などについて話したいと思います。
当院は、広島県の備北二次医療圏という場所に位置しております。面積的には、おそらく四国の香川県とほぼ同じぐらいだろうと思っています。三次市、庄原市、この2つの町だけで構成されており、人口は9万人。とても小さな二次医療圏です。
特徴としては、高齢化が非常に進んだ地域にあるということ。中国山地のど真ん中で、へき地であり、人口も少なく高齢化が進んでいる。何から何までそろったような地域ではあります。
もう1つ特徴があります。広島県は無医地区が非常に多い。数としては全国2番目の多さと言われております。そのうち64%が、この二次医療圏の中にある。さらに、そのうち23カ所が当庄原市内にある。すなわち、かなり医療資源の乏しいと言える地域でもあります。
そういう中で、地域医療の1つの担い手である在宅療養支援診療所や在宅療養支援病院は三次市にもあるのですが、庄原市は面積に比べて非常に少ない。さらに、訪問看護ステーションもそれぞれ5カ所で決して十分な数ではない。訪問看護のない地域もたくさんあります。
この地域の病院で急性期医療を担っているのは、市立三次中央病院、三次地区医療センターと庄原赤十字病院、庄原市西城市民病院です。これら4病院が急性期を担当する全ての病院になります。そして、この4つの病院でつくったのが、地域医療連携推進法人「備北メディカルネットワーク」であります。
地域医療連携推進法人をつくるにあたり、最初はいろいろなメリットを考えました。法律に基づく制度であるので、発信力、発言力があるのではないか。特に大学、その他いろんな若手の医療従事者を確保する上で、非常に強い力を持てるのではないか。そういうことを考えました。また、みんなで協力していけば、スケールメリットを生かした一括購入などによって安く買えるのではないかなど、いろいろありました。
その背景としまして、先ほど言いました人口の少ない無医地区の多い地域、そして、診療所の先生方が高齢化していること。病院においても非常に医師不足、地域全体が医療崩壊の危機に瀕していることがあります。
そういう中で、まずは医師の確保が重要な課題でした。そして、それ以外のいろんな人材の確保、育成です。
以前、この広島県で中山間病院院長のコンソーシアムという集まりをしていました。これによって、地域に若手の医師を呼び込もうということだったのですが、数年間やって実績としては1人だけだったということで、やはり、もう少し強い力の働きかけが必要であるということで、この法人の設立になりました。
平成29年の4月2日です。当時、設立されていたのは3つほどだったと思います。当法人は、一番最初に設立された法人であるとも言えます。それから約10カ月遅れて、当院が参加しております。
日本赤十字社という非常に大きな組織が参加するということで、大変難しい状況であったのですが、広島県、そして広島大学、さらには日赤の推進本部長、いろんな院長先生方のいろんな働きかけによって、日本赤十字社として法人に入ることができました。これは本当に大きな1歩でした。今後いろんな進歩の基になってくるんじゃないかと思っております。
そして病床数、三次市が一番大きくて350床、300床、150床、54床ということですが、まあ、それぞれ地域包括ケア病棟を、もしくは病床を持っております。
理念と運営方針です。結局、地域のなかなか苦しい中規模から小規模の病院が何とか生き残りをかけようと。そして、どこか一つに集約というんじゃなくて、それぞれ、その地域に必要とされてる病院が、きちんと機能して生き残っていけるように、みんなで協力して頑張っていこうという趣旨であります。
医師だけじゃなくて、いろんな医療従事者、地域包括ケアの推進、共同購入の仕組みづくり、共同研修。この共同研修はウェブ会議等を通して、若手医師の勉強というのは非常に今、進んでおります。
連携スキームですが、ここにありますように、三次市、庄原市という行政と医師会という民間、さらには日本赤十字社というのが、できるだけ緩やかな連携をしていこう。そういう中で、どれだけの協力ができていくかという、そういうことになります。
これは一つの例として、医療従事者の確保、育成という点ですが、例えば、この産婦人科といえば、法人全体で6名、そのうち1名が当院にいるわけですが。やはり例えば当院1人の産婦人科医師では、なかなか出産というわけにはいかない。ただ、この地域全体で産婦人科が6名いて、その中の一つとして庄原でもお産をして三次でもお産をするという、そういう産婦人科グループの連携の中で当院でのお産が昨年開始されました。
また常勤がいない、いろんな科においても、具体的に言うと三次の病院ですが、そこにある程度の人数を送って、そこから派遣する、そういうシステム。さらにはふるさと枠の医師、これは29、30年のときで10名。これは広島大学では初期研修を終わって外に出た医師のほとんど全部になるんですが、それが全部こちらのほうに来て、そのうちの半分が当院に来てくれているという。自治医大医師も、そういう形です。
こういうふうに、お互いに、いろんな病院を支援しながら、やっていこうという。いま現在、当院でも西城市民病院、近くの市民病院の当直業務を受けたり、そして、こちらの三次地区医療センターへ、いま現在、週2回ほど内視鏡医を派遣しております。
リハビリテーションも、お互いに地域で研修しています。三次地区医療センターは、広島県に四つある慢性心疾患のセンターになっておりますので、そこで心臓リハビリを勉強する等々。そういう中で、地域全体で若手医師を育てる。
こういう体制と、その実績、指導力等が、県や大学のほうに評価されております。先ほどお示ししたように地域枠の医師、自治医大の卒業生、さらには総合診療を目指す後期研修医、こういうふうな者たちが、この地域に集まってくれています。
医師以外の育成として、看護師の採用ということがあります。例えば、当院で10人の募集をしたところに、もし15人ほどの応募があれば、10人で切るというんじゃなくて、15人を全部来てもらうことにして。
ただ、その看護師さんの配置先といいますか、その辺は病院同士で協議して、とにかく、せっかく田舎に来てくれる、来てもいいという若い人たちを何とか地域全体で受け止めようという考え方をしております。
地域医療連携推進法人のことをお話ししましたが、そういう状況の中で、ここで庄原市についてご紹介します。1人暮らし、夫婦2人だけの高齢者がだいたい30%。平成27年のデータです。今はもう40%を超えて、いずれ50%までは、すぐにいくような状況です。
皆さんの地域も、そうかもしれません。結局、在宅が非常に難しい、そういう世帯が増えてきている。これは今後、減ることなく必ず増えていく。そういう状況にあります。市内の全訪問看護ステーションは5つしかない。アンケートを取って、在宅看取りについて回答してもらいました。
ところが、ちょっと、これはまだ、皆さんに、いろいろ発表の了承を得ていないので、ここでは簡単にしか触れることができないんですが、これだけの死亡者数の中で在宅看取りが実際にできた人は40人。ほとんどは、ごく一部、施設での亡くなられる方もいらっしゃいますけど、病院で亡くなられる方が圧倒的に多いという状況です。
それはやはり患者側の要因としては介護力。これはもう皆さん、その通りだと思われるところだと思います。
これについて、なかなか面白い知見があったのですが、これはまたいつか、場を変えて発表できるように考えております。
そういう介護力のない地域であって、なおかつ、この病床機能報告ということですが、急性期、慢性期、これを減らしなさいという、かなり大きな方向性が出ています。急性期を削減して、回復期、地域包括ケア病床の増床をという形になっています。
結局、急性期を減っていった、その代わりに活躍するものは、やはり、あの地域包括ケア病棟。これを一つの病院だけでは、おそらく十分対応できないということで、連携推進法人で協力し合って病床をシェアしていこうということになっております。
医療資源が少ない。開業医の先生方、非常に少ないですし、高齢化しております。高齢者というよりは後期高齢者が中心になった、そういう地域ですけれども、今後、もしかしたら減っていくんじゃないかと。そういう中で在宅医療に携わる人が本当に少ない。
おそらく今後、この連携推進法人の中の病院が在宅医療をかなり見ていかないといけないだろうなという。まあ、それは今もう、そういう傾向で始まっておりますが。ただ、それを誰が見るんかということで、今の当地区に来ている若手医師。これらの地域医療に対するマインドをできるだけ育てていこうというふうに考えています。
当院の地域包括ケア病棟の現状ですが、急性期ケアミックス型を漫然と続けておりまして、医療資源、人材等の配分は決して優先度が高くなかったという状況でした。
ですから、できるだけのことはしてきたつもりですが、進歩がないという中で、この介護力の少ない地域で病床も減っていく。そして、そういう中では今後の方針としては、やはり地域包括ケア病棟を一つの核として、在宅、入退院支援、訪問看護、それらとの協力の中で、さらにCARB、POCなどのリハビリの導入ですね。
もう一つはレスパイト入院のハードルが非常に高かったんですね。これを低くするということで地域ケアミックス型、プラス、地域密着型を目指していく。
もう一つは、やはり今後10年、20年先を目指して、在宅医療を担う医師、看護師などの教育、成長の場として使っていくという方向を今、出しております。当院の地域包括ケア病棟は今後さまざまな機能を強化した病院地域医療結節点としての役割を担う。そういうものに今後していく、そういう決心であります。ご清聴ありがとうございました。。
【講演2】
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地域包括ケア、その先にあるもの
~まちと恋をしよう~
江角悠太(志摩市民病院院長)
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〇江角悠太氏(志摩市民病院院長)
こんにちは。あらためまして志摩市民病院から来ました江角悠太と申します。まず最初にですね。本当に、こんな若造が、こんな記念の大会のシンポジストとして、この場に立てるということは、本当に、会場におられる重鎮の先生方、今までお世話になった諸先輩方に、すごい本当に荒くれ者なんですが応援をしていただいて、自分が今ここにあるんだというのをかみしめて、お話をしたいと思います。ちょっと、むちゃくちゃな講演になるかもしれないんですが、よろしくお願いいたします。
この題名ですけど、結局、地域包括ケアシステムって最終的に何のためにやるんですかっていうところが、何でもそうですけど、理念なきものに手段はないというところが、私たちスタッフ、病院でも、ずっと言い続けてるところでして、何のために地域包括ケアをこれから私たちはやっていくだろうというところを、私の今やってる実体験を踏まえながらですね、考えを述べさせていただきます。
幼少時代です。私はずっと何か怒られ事をすることにですね、祖父母、そして両親に公園に連れていかれて、ベンチに座らされて、夜の公園で池を見ながら、「お前は何をしてる。何のために生まれてきたか分かってるか」と。
「お前は、お前の人生を使うためにお前の人生はないんだよ。お前の人生は全て人のために使う。そのためにお前はここに生まれてきてる」
ずっと諭されてきました。3歳からです。
分かるわけないですよね。そんなこと。ずっと分からなかった。分からないまま小学生になって反抗期を迎えます。でも、ずっと、これを言われ続けるんです。
もちろん、こうなりますよね。(会場、笑い)
もう、ずっと今度は反抗し続けるわけです。「いやいやいや」と。「自分の人生は自分のためにあるものに決まってるだろ」と。
だから自分自身で全部使ってしまう。自分が楽しければいい。よく、だから警察とは仲よくですね、カーチェイスをしたりですね。あと自転車ごっこをして、レースごっこをして、そのとき勝った。10台の警察の自転車に勝ったときの、仲間で打ち上げたときの写真とかですね。要は身勝手なことを私はずっとしてきたんですが。これはもう無期停学になる4時間前の、一番最後、あどけなかった修学旅行の写真ですが。
本当に自分勝手にずっと過ごしてきたんですけど、ある時、この映画を見てですね、私は医者になるということを志しました。そのときに、このパッチ・アダムス見せられたのが、これです。
まさに自分の父親、祖父母、両親に言われてたことが実践してるロールモデルがいてですね。そっちのほうが実際、楽しいんだよと。そっちのほうが自分のために生きるよりも人のために生きたほうが実際、楽しいんだというのを、まざまざと見せつけられ、ガーンと激震が走り、私は医者になりたいというよりかは、パッチ・アダムスになりたいと思って。まあパッチアダムスがたまたま医者だったから、医者という手段を選んで私はここにいます。
また、その翌年のある年、卒業式で、ちょうどミレニアム、2000年でしたので、国家国旗の問題で各校がボイコットするんですね。都立西。私、都立西高という高校で、東京の高校なんですけど。
ですので、ちょうど私の父親と同じ世代ですので、学生運動の世代のカマタ先生から、私は30年後の西高生と。自主自立という校風、自由をはき違えて高校生が育っていくという高校で、まさに私もそれをずっと。だからカマタ先生は、もっともっと激しい高校時代だったんじゃないかなというのを推察します。
このときに、まあ、あることがきっかけで、自分は、じゃあ誰のために医者をやるんだとなったときに、「全世界の人」ということが決まりました。その当時は60億人。今は70億人です。40年後、私が77歳になるときには、たぶん100億人になってる。1人残らず全世界の1人残らず、すべからく助けると。健康にすると。そのために私は医者をやるというのを、このときに、18歳のときに決めて、それ以来、まあ、ずっと、ひたすら、その目標に向かって大学生活を過ごしてきました。
ひたすら人に会うため、人に学ぶために、いろんなところに飛び回り、そして、研修2年目のときに東北大震災が起きて、友だちから助けに来てよと言われて助けにいった。これ、研修2年目ですけど。
5人で行ったんですが、横にいる4人はですね、これは工学部の僕の同級生。トヨタのエンジニアです。医学部の2年生、1年生、1年生。もう素人同然の医療チームがですね、わあっと行ったんですね。福島県のいわき市に。
どこだ、どこだと。医者と看護師がいなくなったって電話かかってきたと、どこだみたいな。保健所所長に、そんなところはないって。そんなことないじゃない。そうやって言われたから来たんだ。お前らはいらないって言われて、そんなことないって言ってたら、結局、あったんですね。30キロ圏内に。
30キロ圏内はDMATも医師会も踏み入れてない地域でした。なぜなら中に避難所がないから。行政が避難所をつくらなかった。そこはノーカウントにしてた。でも実際、300人住んでた。僕、このときに思ったんです。ここだと。僕の生きる道はここだと。この行政が超えられない30キロ圏内へ行く、このライン。ここが私の生きる道だと。
要は行政とかシステムとか組織が助けられる人は、それで助けてもらえればいい。でも、僕は10割なので。助ける相手が。それでは足りない。であれば、これ、震災後2週間、誰1人、この30キロ圏内、入ってなかったんです。医療者が。でも300人住んでたんですね。1日10人ずつ増えてる。もちろん、そこから動けない理由が皆さんありました。ここを僕は助けられるような立場で、ずっと医療し続けるというのが、この東北大震災のときに学びました。
そのあと、まあ、ひょんなことがきっかけで、病院をとりあえず船の上に建てないと、ある人を助けられないという事例が私の中にあって、そのために船医をやって、実地研修ですね。本当に病院を船の上に建てられるのかというのを、まあ見るために世界一周をして、ふらふらっと最後に行き着いたのが今いる志摩市です。
全世界を見て、日本をぐるぐる回ってですね、結局は私は一つ、全世界、70億人、もしくは100億人を助けるためには、僕はやっぱり一所にいないといけないと。ふらふら、ふらふらしててもしょうがないと。何も変わらない。どこか一つの地域を決めて、そこに全部、自分の全身全霊をかけて、そこに住んでる人を、すべからく全員、助けると。健康にすると。幸せにするというのを思って、5年前に志摩市に赴任をしました。一内科医として。ちょうど地域包括ケア病棟協会ができた年と全く一緒の時期ですね。私は、ただの一医者として志摩氏に降り立ちました。これはうちの病院ですけど。そしたらですね、何と。
赴任して1カ月で病棟が閉鎖して、4カ月で看護師が10人辞めて、1年で僕以外の医者が全員辞めるんですね。残されたのは赤字7億、医師会、議会は全員反対。90人のスタッフと稼働率20%未満の病棟と医者のいない診療所が残りました。
結局これは、これから、まあ、もちろん、今ここに私は立っていますので、この病院は、だんだん、だんだん頑張って成り立っていくんですが。まあ、残ったスタッフとともにですね、とりあえず5万人の人を幸せに。全ての人を幸せにするために、この病院を使おう。そして私たちは、そのために生き続けようという理念の名のもとに今まで4年間ですね。院長になってから4年間やってまいりました。
そもそも健康の定義って何だろう。WHOが決めてる健康の定義。最近は何かオランダが新しい定義をつくり始めた。うちの病院としては、これを地域包括ケアシステムの理念とWHOが決めた理念に生きがいというワードを足して、スタッフにいつも言っています。
私たちが人を健康にするといったときの、その健康は、この二つです。身体的、精神的、社会的に満たされた状態であること、かつ、住み慣れた地域、住み慣れた家で最期まで生きている意味を実感しながら過ごせる町にしていくために医療機関が支援をしていこうというのが、うちの病院の理念です。
78歳の男性で胃がんターミナルの人、僕は半年前から私が外来をしていて、胃がんが見つかってしまいまして治療しましたが、結局、治療かなわず私の病院に帰ってきました。帰ってきたときには、腹水ぱんぱん、背中の痛みあり、食べれない、しゃべれない、歩けない。
もう家族は、もともと本人は最期まで家にいたいという希望が、ずっと外来から言ってましたので、家族も何とかそれをしようと思ってたんですが、もう、この状態では見きれない。なので入院させてくださいと言われました。
僕、ご家族さんとも、ずっと仲がよかったので、本当にいいですかと。このままだと、あと2、3日ですと。本人さんは最期まで家にいたいという希望をあれだけ言っておられました。大丈夫ですか。お願いしますと言われましので、そのまま入院をしていただき、担当になりました。
まあ、ここにいる女学生ですね。うちの病院に実習しにきてる学生を1人つけて、最後2、3日の命だから、あなた頑張って何とかしなさい。最後に医療者として関わるあなたも1人ですというので、学生、お前ができる全てのことをやるというのを言って、男性についてもらいました。
薬を抜いてモルヒネとコントールするとですね、入院3日後に本人が、ぽろっと、家の風呂に最後に漬かりたいと、それを学生が聞きつけてくれた。学生は僕のところに来ます。こんなん言われました。
何と、この学生、入院したその日から、6時間、7時間、ずっと、しゃべらない患者さんの手を握りながら、ここにいたんです。私ができることは、それだけですと。自分で決めて自分で行動して、結果、その学生の姿を見て、本人がこの人だったらいいかといって、気を許して、その一言、最後の願望を言った。
多職種、すぐに集めて、よしと。絶対にかなえようと。僕、今まで患者さんの最後の願いをかなえらないことは多々ありました。ですので、絶対かなえるぞと。家族と一緒にカンファレンスを開き、家族は、もう、もちろん不安。家に帰るわけじゃない。お風呂だけ入れさせてくれと言って、みんなで退院前訪問して段取り組んで、風呂に入れられる段取りもしてですね。特別なチェアもつくって、そのままお風呂に入れるように、みんなで多職種で10人ぐらい関わってやりました。
実際、退院させて、翌日ですね。よし、やろうということで、みんなで行ったらですね、このベッドから、よいしょって、その特注のチェアに移そうとしたら、もう苦しいって。やめてくれ。結局、最後の願いをかなえることはできなかった。
ただ、その一晩、帰したときに、彼はビールが飲めるようになった。しゃべれるようになった。ご飯ちょっとずつ食べられるようになった。何と笑うようになった。その一晩の彼の様変わりを見て、家族は、いいですと。このまま自宅で見ます。彼の最後の望みである自宅で最期までという望みを頑張りたいと思いますって家族が方向転換をしてくれました。
最後、私たち医療スタッフとともに家族と一緒に頑張って。頑張ってというか、むしろ、何とかして彼を最期まで支え続けようと。ただ、彼はずっと笑っていたんです。終始。そして私は飲み会に2回も誘われました。12日間、生きたんです。家で。笑いながら、昔話をずっと毎日してました。家族と食事をして、最後は花見までして、亡くなりました。
これ、全ての患者さんにやってほしいんです。私のスタッフは。全ての患者さんにできるようにしたいと。ここで一番必要だったのは、何よりも、どんなに優秀なスタッフでも、どんなにいい抗がん剤でも、ダビンチでもない。AIですらない。家族です。
在宅で最後に本人の住み慣れた家で最期まで暮らすという生きがいを持ったまま、生きてる意味を感じながら暮らすということに一番必要なのは家族だと思いました。そして学生。最後に私たち。
ですので、まず、この家族が大前提にないといけないと。同じ志摩市内にいないと、これは実現不可能でした。名古屋にいたら絶対無理です。家族が名古屋、大阪、東京にいたら絶対無理です。これできません。
ですので、根本的な解決方法は家族が同地域に住めるような街づくりをしなきゃいけない。その世代が必要な仕事、医療、産業を1人の人を守るために健康にするためには、医者はそこまで介入をしないと1人の人の命を最期まで燃やし続けることはできないというのを感じています。
医療に関しては、私たちの町、5万人いますので、住民のニーズですね。救急医療を何とかしてくれとそして子育て支援です。そのために医療ができることをやらないといけない。
病院嫌いの世代には予防医療をしておいて、なるべく健康寿命を延ばせるようにしておく。病気にならないようにしておく。いずれは病気になりますが、もう病気でも、それを抱えながら死にますと、生きますというようなところまで健康にする。
最後にそうなったときに、ちゃんと本人の希望で、希望した場所、希望した場所で希望した医療を支援を受けられるようにするというのが、やはり医療者としては、これは私たち総合診療で家庭医療学という学問で散々ひたすら3年間学んできてますので、やはり、ここをけん引していく一つの方法としては総合診療というのが必要なんじゃないかと思っています。
別に総合診療科である必要はないんです。そのマインドを持って、ちょっと、あとちょっとの技術を持った人が、これをやっていければいいかなと思っています。産業としては、ちょっと、きょうは時間がないので飛ばします。
一番重要なのは、いつも言われるのは教育です。街づくりをする上で結局、産業従事者も医療従事者も教育でしか生まれません。棚からぼたもち的に、今まで、どこからか、ひょろっと出てくるのは、もうありません。自分たちでつくるしかないです。優秀な産業を興せる、優秀な産業人材は、産業は別にどこでも興せるんです。優秀な医療人材はどこやったって、人を助けることができるんです。今のその住民のニーズを聞いて、そこに耳を傾け、それに合わせることができる柔軟な人材をつくる。
そして、何よりも、その地域に親和性の高い人材でないといけないというのを、それをすれば結局、教育さえ、そこで充実させておけば、産業も勝手に興るし、医療も勝手に成り立つ。最終的には。根本的な解決方法は教育だというところを今、皆さんと議論をしています。
うちがやっている、ここが今、主題ですが、教育目標はこれです。実習期間中、必ず患者さんにありがとうと、あなたがいてくれてよかったと絶対言わせて帰る。これ言わせることができなければ補習です。ずっと居続けなさいというのを各学生に言っています。
全世代、今やってるんですが、大学生、医学生。大学生に関しては医学生、看護学生、リハ学生だけではくてですね、今はほかの学部の人材も全部受け入れてます。あれが目標だからですね。
要は、これからの医療というのは、医療人、介護人材だけでは成り立たない。福祉だけでも成り立たない。そもそも街づくりをするために全ての因子が必要で、全てのファクターを賄える人材が必要です。医療だけ賄ってても、町は結局、大成できない。
これが結局、学生たちがいたからこそ生きがいを持って最期まで家で暮らせた。もしくは最期、自分のいたいところで死ねた方々。学生がいないと無理でした。もちろん学生たちは地域、イベント、特に祭りですね。祭りにどんどん参加をさせて住民と、とりあえず対峙させます。
要は患者と住民、触れ合う時間を一番取ります。僕としゃべる時間は1日30分。ほかは全部、患者としゃべってます。住民としゃべってます。自分たちの病院の祭りを今度はスタッフ、学生、地域住民が主催するようになる。
そして今度は学生たちのお祝いをするために実習した学生たちの卒業式を開こうと、地域住民が立ち上がります。おめでとう。また戻っておいでよ。それをみんなで祝ってあげましょう。関わった地域住民、スタッフ、みんなでうちの病院で育った人たちを送り出してあげる。
結果、その結果、全く新規採用、新卒者がいなかった病院にですね、田舎の辺ぴな最前線の病院に、ぽつぽつと新卒で入ってくるスタッフが増えました。これだけの教育をされているので、もちろん相当、志摩市には思い入れがあります。逆に思い入れがないと入ってきません。自分たちの親のように患者さん、住民を扱います。ですので長続きするんですね。
高校生も一緒です。今3校やってますが、志摩医療体験学習というSMELというので、やっています。高校生も全く同じようにやります。患者さんを持たせてやる。中学校に関しては、この講演をしにいきます。もちろん中学生に関しても医療体験実習をさせます。
東京都立西高校、私の後輩が三重大の医学部に入ってきました。理由は志摩市を助けるためです。志摩市の住民にお世話になったので、志摩市の住民に恩返しをするために学生時代から恩返しをしたいので三重大の医学部を受験しますと言って、高校2年生のときに出ていって、そのまま本当に三重大の医学部に入ってきました。そういう方が、どんどん、どんどん出てきています。医学部の合格率7割です。このSMELに入ってる人たち。
中学校に関しても、そもそも何のために、あなたたち生まれてきたんですかと。これから何のために生きるんですかという話をしています。その結果ですね、実習も組み合わせて、高校がなくなるはずだった高校、100人を切ったら統廃合の対象になる高校だったのを、介入した翌年から入学者数が20%上がった。それを今、維持できています。
たった、これだけのことで、みんなでやると住民の意識が変わるんです。要は、もちろん、これは学生の意識、もとより、PTAも、高校の教職員も、中学の進路指導部の教職員も意識が変わっています。自分たちの町をもっと愛さなきゃいけない。今は小学生にも、その教育をしています。メディカルラリーという手段を使って。または病院祭りという手段を使ってやっています。
今は社会人です。さらに社会人教育として、まずは私の学生時代の同級生から来てもらって、同じように患者さんを持たせます。今の医療の現状を伝えます。そうすると彼らは自分たちの分野で何か協力ができることないか。地方創生に対して、地域医療に対してという視点で考えていただいて、今、各分野からサポートしていただいています。これからは企業研修も入ってきます。
もっとやりたいのは在宅に帰すために、家族の不安を取りのぞくために、まず親が介護になる前に介護従事者として子どもたちが介護を体験すると。やったこともないから、なかなか、みんな受けられないけど、1回やってしまえば、こんなもんかというように思っていただいて、さあ、在宅いくよというときにノーと言わない人たちを増やす。家族を増やすというのを、これからやっていきたいなという計画をしています。
こんなことしてると、学生が今度は慈善団体をつくるようになって、自分たちで活動する団体をつくる。理念はうちの病院と一緒です。やることは、自分の病院でもできない。誰も市民ができないところを彼らは気持ちだけで、そして今、自分たちでお金を稼ぎながら自走するために継続するためにやっています。そこら辺の話も、ちょっとしたいんですけど、飛ばします。
結局、医療介護、福祉、そして市民税体、共助、自助できない場所もあります。もはや、さっき言った高齢化率90%、50人の間崎島なんてものは、もう何ともなりません。でも、そのときに一番関わってくるのは学生です。この人たち無償です。僕たちができないことをやります。グレーゾーン、全然いけます。僕たちが踏み出せないゾーンに学生たちは入っていける。
そして、そこにバックにつく企業、そしてそれを先導してサポートする教員というところが、本当に行き詰まった限界集落を助けるためには必要なんじゃないかなというのを最近、思っています。
最後に地域包括ケアのその先に何があるのかというところは、結局、僕の中では、結局、その自分が責任を持っている町が幸せになって1人も取り残さず、生きててよかった。志摩市に生きててよかったと言って死んでいける、暮らし続けることができる町をつくり続けながら、そういう地域が日本全国に増えて、都会も住みやすくなり、田舎も住みやすくなり、日本のどこへ行っても自然資源も残ったまんま、どこへ行っても住みやすい日本、美しき日本を取り戻すために、私たち地域包括ケアを使って街づくりをしていくんではないかなというのが私の今のやっているところです。きょうはありがとうございました。
【講演4】
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福祉・介護と医療の連携に向けた千代田区の取組み
~住み慣れた地域で安心して暮らし続けるために~
歌川さとみ(東京都千代田区保健福祉部長)
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皆さん、こんにちは。私は千代田区役所で保健福祉部長という立場で仕事をしております。歌川です。アクティブな発表があった直後で何となく話がしにくい状況です。
今回の大会では行政との連携も考えるということですので、私は自治体の立場から、お話をさせていただこうと思っております。
地域包括を考える。地域包括を考え、また医療を考えるといったときに、制度設計をする方、オペレーションをする方、経営をする方々、それぞれご苦労があると思います。私は自治体といっても都道府県のレベルでもない、小さな基礎自治体としての直接、住民に接している立場からお話をさせていただきたいと思います。
超高齢社会を迎え、健康で長生き70代でも非常に活動的な方が少なくありません。私の子どものころは、現在の私の年代ですとよぼよぼのおばあちゃんという印象だったような気がします。
70代80代でも元気な方がいる一方で、やはり、さまざまな支援が必要とする高齢者が増えていますし、8050問題に代表されるような複合的な課題も増加しています。医療の現場の方たちも病院等の中で感じてらっしゃるでしょうけども、自治体の窓口を持っている自治体からすると、それが切々と感じられることが多いということでございます。
まず千代田区のご紹介をさせていただきます。この会場も千代田区にあります。非常に小さな自治体です。東京23区全体で一つの自治体でもいいくらいの面積しかありませんが、千代田区の面積は12平方キロということで、23区の中でも小さな面積です。中心部に皇居がありますので、人が住んでいるところは、その皇居以外のところ。しかも、ここの会場がある大手町とか東京駅の前の丸の内とか有楽町、それから官庁街があります霞が関。こういうところには人が住んでいません。国会の周りも住んでいません。国会も千代田区です。住民がいるのはそれ以外の非常に狭い地域です。人口は6万人ぐらいです。番町、麹町という昔のお屋敷街にマンションがたくさんありますし、昔の職人町と言われていた神田のほうに人が住んでいる。
一方で、昼間人口といって、ここの大手町、丸の内に働いてる方もそうですけども、国勢調査だと85万とか83万という数字が出てきてですね。その昼間いる方と定住、常住人口の差が15倍ぐらいあります。昼夜間人口の差が大きいことで行政としていろいろ考えなければいけないことがあります。
医療の関係の方から見れば、住民を相手にする医療というよりは、昼間働きにきている人たちを、まあ患者さんとして、どう入れるかという話になってくるのかなというふうにも思います。
6万人しかいない人口といいながら、今度は人口の推移を見てみると、千代田区の場合は今、人口が増えています。20年ほど前が底でした。3万人台になったことがありますが、それ以降ずっと増えてきています。
千代田区の人口は昭和の30年代、今から50年ぐらい前に12万人を超えていた時期がありますが業務用のビルが、どんどん増えて、地上げという言葉もありましたけれども、人がどんどん転出して4万人を割り込みました。このあと、いわゆる都心回帰の流れが出てきまして、都心部に住もうよという話でマンションが建って、どんどんマンションが建つことによって、人が増えているというのが現状です。
都心回帰、マンションが建設される背景には、地価がバブル時代より落ち着いた、「交通などが便利」ということの他に子育て支援とか高齢者の福祉などが非常に充実していることが挙げられています。今は何でもネットで見ていくんですけど、どこが一番得みたいな話になると、千代田区って住居費が多少高くてもお得感あるんじゃないのって思って、それに対応する所得も一定程度確保できる人たちが流入してきているという現状が見られるようです。
また、千代田区の一つの魅力としては医療機関がたくさんあること。これも魅力の一つになっているようです。今の人口は6万人で高齢者の人口も増えています。年代別ですといわゆるファミリー層の30代、40代の方が増えているので、高齢化率の推移としては落ちてきています。今17%ぐらいになっています。
介護保険が始まったときが、20%ぐらいありましたので、高齢化率は落ちてきている。人口構成が変化しています。日本全体だと高齢化率は今28%。先ほど、広島の話があって、40%とか、そんな話がある中でいうと、非常に若い。その流入してくる人口があるがゆえに若く。高齢化率は下がっていく状況があります。ですから、超高齢社会に突入しているけど、千代田区は特別。東京都全体で見ても高齢化率は上がっているんだけど、千代田区だけは下がってきているような実態が見えてきています。先ほど、平成12年、千代田区20.2%。それが、この29年のところが17.9ってなってますが、まだまだ下がっていく可能性があると思ってます。12年の時点では23区、東京23区といって、ちょっと浮かばない方もいらっしゃるかもしれませんけど、平成12年の時点では上から高齢化率が高いところっていって見ると、千代田区は上から3番目とか4番目とか5番目にいたんですが、現状は高齢化率が低いほうから見ると3番目から4番目とかという、そういう状況になっているのが今の千代田区です。
ここまで聞いても、千代田区は、普通の自治体とは何か違うかなという感じがあるかもしれません。でも、千代田区の高齢者人口は1万2千人ほどで、高齢者福祉や介護は大きな課題です。特に、ひとり暮らしや高齢者のみ世帯が全体の6割以上いる、人数で見れば1万数千人のうち70%を超える人が高齢者だけで暮らしているか、高齢者のみ世帯ということが、福祉の分野での課題を複雑にしています
先ほどのお話にありました。家族がいれば何とかなるかもしれないけど、1人で暮らしている。1人で暮らしていて認知症になった。判断力もなくなた。どうしたらいいの。誰が助けるのっていうようなケースが顕在化してきていて、それがどんどん増えているので。
今後、区役所として、自治体として、どう対応していくんだろう。これから先の超高齢社会というのは、一人ぼっちの高齢者だけがいて、その人の判断能力がなくなったときに、どう支えればいいんだろう。病院にも行かれないという人が出てくるのではないかと危惧しています。
高齢者のみ世帯が6割ぐらいいるのですが、この人たちの中で、要介護認定を受けていない人たちが半分ぐらいいます。先ほど、高齢者の人口をご覧になっていただいたのですが、千代田区の場合は65歳から74歳よりも75歳以上の高齢者のほうが割合としては高い。そのうちの半分ぐらいの人が実は介護認定を受けていない。受けていない人たちが、受ける必要ができたときに介護認定を受けるために申請する必要があります。でも、その時点でひとり暮らしの認知症という状況で申請することができない人が、これから出てくるんじゃないかという心配を私ども、職場で話し合っているところです。どういう手助けが必要なのか。
今、要介護認定の数を示したのですが、千代田区の場合の要介護認定者はだいたい安定してきていまして、1万1000人ぐらいの高齢者のうちの5人に1人ぐらいが要介護認定を受けている。割合的に見ても、そんなに要介護度別の極端な変化が見られるものではないという状況です。
認定率って、よく介護保険の話をする中で出てくるんですけど、認定率は平均と比べると千代田区は高いです。5人に1人、20%程度です。全国平均よりも2ポイントぐらい高い。高い理由は後期高齢者、先ほど言った75歳以上、もしくは80、90の方が非常に多いので、半分しか受けてないといっても、やっぱり、それなりの高さになるのかなというふうに思ってます。認定率が高いから何か問題なのか、比較的、介護保険の認知度が高いという見方もできるかなというふうに思います。
認定を受けている人たちの状態ですが、認知症の問題が病院でも問題になっていると思うのですが、認知症の方の割合はどうなんだろうといって見たのが千代田区の統計です。認定を受けている方の半分以上、55%に、いわゆる認知症の症状が見られます。
地域包括ケアシステムの必要性を考えていく視点の一つは、高齢者の数が増えて、しかも、それが認知症というのが大きな問題だということになっていると思うのですが、その一つの証明というか、そういう現状が見て取れると思います。
認知症になってしまって、先ほど言ったひとり暮らしで身内が誰も近くにいない。千代田区の場合は山間部など過疎で人が住んでなくて、周りに人がいないという状況とは当然違います。これだけ都市化して人口が密集してるのですが、マンション住まいなので、人とのつながりがない。マンションに住むと人と関わらなくていいからマンションに住みたいという人が多くマンションに住んでいます。
認知症になってしまってひとり暮らし。高齢夫婦のみの世帯で、どちらか一人が介護を必要とする状況にあり一人では生活できない状況の中でサポートをしていた方もう一人が認知症になる。このような状況になってもでも、都会のマンションで閉鎖された空間の中で誰に助けを求め、誰が助けるのかこういう問題が今、生じてきています。
千代田区の高齢者福祉の理念は『その人らしさ』が尊重され、住み慣れた地域でいきいきと暮らし続けられるまちの実現です。住み慣れた地域で暮らし続けられるようにしたいと考えて、取組みを続けています。私、今、保健福祉部長という立場ですが、十数年前は介護保険に関わっていたこともあって、そのころから、この考え方は変わっていません。
取り組みの重点として、地域包括ケアというのは別に医療と介護の連携だけではないので、フレイルの対策、介護予防の対策、健康寿命を延ばすというようなことも考えて、急激に増えている認知症の方へのケアをどうするかなどにも取り組む必要があります。
認知症の方だけではなくて、さまざまな医療ニーズを抱えた方になってくると、生活を支えるという観点の、まず核としての医療と介護の連携というのを考えなければいけない。これをどういうふうに考えていくかというのが、取り組みの重点となってます。
見守りも必要です。医療が適切に提供されたとしても、その人が在宅で暮らそうとすれば、もっと、もっと単純な、ごくごく普通の営みの中での生活の支援ということを考えなければならない。それに行政がどこまで関わるのか。どういう仕組みをつくったらいいのかというようなことをいろいろ検討、模索しているところです。
三つ目が、やはり、医療機関と介護の関係、在宅介護サービスでは対応できなくなった場合の最後としての施設をどう確保するか。都心部、千代田区は土地が高いので実は、在宅サービスを提供する事業者さんが千代田区にあまりないということもあります。
近くにある隣接している新宿区、台東区、文京区、港区、中央区から入ってきてもらえばいいんですけども、そうは言っても、お住まいの方に寄り添うという意味でいったときの介護基盤をどうするかも考えなければいけない。
地域包括ケアシステム。総合サポートセンター、高齢者総合サポートセンターという絵があるのですが、本大会の委員長である中井先生の九段坂病院がここに入っています。
というより、これ、ぱっと見て、九段坂病院の絵でしょって医療関係者の方は思われるでしょう。実は、これ、千代田区の高齢者総合サポートセンターをつくりましょうという話があった、ちょうどそのころに九段坂病院が移転先を探していて最終的に合築されたのです。
建物のだいたい8割は病院が使っていますけれども、残りの2割、これが千代田区の高齢者の福祉、介護施策の拠点になっています。
在宅重視の介護をずっと掲げてきました。介護保険だけでは高齢者は生活できません。行政として、それをどう支えていくかということで、高齢者の介護保険が始まった、介護サービスがいろいろ入ってきたけれども、そのほかの部分の高齢者の福祉の充実にも力を入れようということで取り組んできた。そんな千代田区の象徴的な施設というふうにご理解をいただきたいと思っています。
高齢者の在宅生活を支えるために何が必要なんだろう。平成15年ぐらいから検討を重ねてきました。この建物は今、九段坂病院と一緒に九段下の駅から3分、5分ぐらいのところに、今から約4年前に開設をされました。
老後に備える。誰でも考えます。人生設計をして、いろいろ準備をされる方もいらっしゃいますけども、高齢期を迎えた途端に、やはり生活上の思わぬ問題が生じ、いろいろ考え老後の計画してきた通りにうまくいかなくなり自信を失い不安になる。 そうなると、まあ、どこか施設に入るかなって、すぐ短絡的に考えてしまうんですけども、施設も、そんなにたくさん自由に入られるほど、あるわけではない。こういう中で、とりあえず相談できる場所があれば、少しは安心できるよねっていう、その平成15年ごろから検討し始めた中で出てきた一つの発想です。
そのような場所というのは、医療保険制度、介護保険制度、そういう制度には制約されないで、一体的に対応できるとか、運営できるとか。当然、お金もかかりますけれども、そういうものを、お金の問題はちょっと別にして、高齢者の立場から考えたら何が必要だというふうに考えた。そこが、その施設検討の原点になっております。まあ24時間365日、ここには相談に応じられる人がいます。何か、要するに、夜、急変したとか、ご夫婦で暮らしてて片っぽうの方、具合悪くて救急車呼ぶんだけど、一緒に乗れないんだけど、どうしようなんていう話事案にも対応しています。
それから九段坂病院との合築のメリットとして、やはり医療介護の連携ということができていて区民にとっては身近に救急対応してくれるだけではなくて、相談体制の充実を含めて、非常に効果を発揮しているという評価を得つつあります。
また、フレイル対策とか介護予防という観点からこの建物内には高齢者活動センターがあり活動的な高齢者を支える。それと、福祉の人材育成という点では、医療の関係の方、看護師さんのことなんかも含めて九段坂病院さんとの連携でリハビリも含めた、そういう人材育成の講習会を開催するなど様々に取り組んでいるところです。
医療と介護の連携という点でも、今このサポートセンターが中心になっています。千代田区の場合は、いわゆる日常生活圏域というのが狭い地域でありますが、麹町と神田と2カ所用意されておりまして、そこと、この今24時間365日、人がいる相談体制を連携させることによって、医療についても、ここが連携の拠点になり、相談を受け付けるところが九段坂病院の地域連携室と隣接というか隣り合って、ほぼカウンター一つでやりとりができる状況になっておりますので、ここで対応をしていくというようなことになっています
九段坂病院は地域包括ケア病棟も備えてリハビリも充実しているということで、区民の救急にも対応していただいている状況です。
あと、もう一つ。ちょっと千代田区ならではというか、医療ステイという事業があるので、そこだけお話をさせていただきます。地域包括ケア病棟ができる前からですね、在宅療養が必要な高齢者が在宅生活を進めるために医療ステイという事業があります。
また、地域包括ケア病棟ができた以降も地域包括ケア病棟に行く、うまく、そこで使えないというようなことも、医療ステイという区独自の事業の中でやっているんですね。
医療ニーズのある人というのは、例えばデイサービス使えません。介護職じゃ対応できませんから。それからショートステイ、いわゆる介護保険のショートステイ、使えません。そうすると、医療ニーズの必要な人を介護している人、ずっとずっと休みが取れない状況になってしまう。病院にちょっと入院させるといっても、そういう理屈もなかなか、というのがあります。家族のレスパイトを主に考えて平成15年10月から実施しています。
病院に入れば医療の行為は、まあ医療保険でやってもらうけど、区は何かあったときに優先的にお願いするために病院と協定を結んでいて、何かあったときは受け入れてくださいという緩やかな協定を結んでいて、使ったときには、いわゆる差額ベッド代は区がお支払いしますという事業です。区内の九段坂病院も入れて五つの病院と協定を結んでいるというところです。
認知症に優しい街、千代田としていろいろな取組みをしています。医療と介護の連携とともに、見守りであるとか、それから成年後見制度の活用をするとともに、やはり多職種連携ですね。専門的な医療、専門的な介護というだけではじゃなくて、この人を中心に、どういうふうに多職種連携するかを模索しているところですが、いかんせん、先ほど申しました通り、区内にいらっしゃらない事業者もある中で、いろいろ課題を抱えながら四苦八苦しているところです。
認知症のサポート体制も一応、形は整っています。でも、どこまでできてるかと言えば、ちょっと自信がないかなと。
地域包括ケアシステムの推進というのは、一つひとつ、の志のある方が引っ張っている地域もあります。千代田の場合は行政が、まず音頭を取らなければいけないという思いはありますが、そうは言っても行政だけでできるものではないので、この志ある人たちをどういうふうにサポートし、やる気を出してもらうか。そして、また、一人ひとりの区民の方、住民の方たちが、どう考えるかという話も出てきました。千代田区、学生もたくさんいるので、そういう人たちをどういうふうにコーディネートしていくかをこれから考えていきたい。
行政としての仕組みづくり、それから機会の提供などに尽力をする必要があると考えているところです。ご清聴ありがとうございました。
【講演4】
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UR都市機構が取り組む地域医療福祉拠点化
山澤正(都市再生機構ウェルフェア総合戦略部長)
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はじめまして。UR都市機構の本社ウェルフェア総合戦略部で部長を務めております山澤でございます。皆さま方のご専門とは、ちょっと違う分野からの取り組みということで、お話しさせていただきたいと思います。
「地域包括ケアシステム」という言葉があります。それをUR版にちょっとかぶせたような言い方ですが、「地域医療福祉拠点化」ということに取り組んでおります。実際、どういうことをやっているのかということで、事例も紹介させていただければと思います。
最初に、UR都市機構がどういう組織と申しますと、ご年配の方はご存じかと思いますが、私どもの組織は戦後、首都圏をはじめ4大都市圏で急激な人口の増加が起こり、それを解消するために今から60年ぐらい前に日本住宅公団という組織ができまして、都市の近郊に多くの住宅をつくってまいりました。
その後、行政改革等、組織改編がございまして、現在は独立行政法人都市再生機構と名称は変わっておりますが、主に住宅のことを取り扱っているということは60年間、一貫しておるところでございます。
UR都市機構の主な仕事は、一つには都市再生。都市の再開発とか、そういったことを展開しております。東京や大阪という大都市もあれば地方の都市も再生するということで展開しております。
それから、UR賃貸住宅を管理するということで、現在、全国に約1500団地、72万戸の住宅があります。住んでいる人の数は約120~130万人です。
更にもう一つ大きな仕事として、東北の大震災の復興事業も展開しておるところです。
賃貸住宅の状況についてお話しさせていただきます。60年ぐらい前から団地をずっとつくり続けているというお話をしましたが、一番たくさん団地をつくったのが、昭和40年代から50年代の前半。今から50年ぐらい前の話です。
この時期に、特に東京、大阪を中心に地方から大勢の人が集まってきた。住宅が非常に不足したので、このときに40万戸ぐらい住宅を建設し、今URが管理している72万戸の6割ぐらいが古い時期につくったものという状況にございます。
ひとつの団地の規模は1000戸以上、大きいものですと5000戸、6000戸という数がございまして。敷地面積も非常に広いという特徴があります。
民間マンションとの大きな違いですが、URの団地は比較的屋外空間がゆったりつくられており、緑地とかプレイロット(団地内公園)などが十分にあるというような特徴がございます。
これらの団地に住んでいる方の特徴でございますが、先ほど広島県、千代田区の事例、いろいろ出てまいりましたが、UR団地のお住まいの方につきましても、65歳以上の高齢化率が、建設時期との関係だと思われますが、平成27年度のデータで全体の35%ぐらいになっております。また、単身で住まわれている高齢者の方が20%ぐらいに達しております。
この地図の青いところが団地の主な位置ですが、特に国道16号線のちょうど内側ぐらいの地域に、たくさん立地しているという状況があります。
しかも、高齢化のスピードが国全体よりもかなり早い状況で進んでいる。また、単身の方が多いという状況にございます。
このような状況を踏まえて、平成25年度に東京大学の高齢社会総合研究機構の辻哲夫先生を座長に超高齢社会における住まいとコミュニティーのあり方検討会を開催しまして、今後、どう取り組んでいこうかということを議論した上で、こちらにございますような国の施策の中に団地の地域医療福祉拠点化ということを位置付けていただいております。
取り組みのポイントとしましては、団地において多様な世帯が生き生きと暮らし続けられるような住まい、街づくりを進めていくこと。多世代の人たちがですね、住み続けられるようなコミュニティーを活性化していくこと。そういったことを取り組もうと考えております。
また、地域包括ケアシステムの取組みに対応するような形でUR団地を地域の医療福祉拠点にしていこうという取組みです。
ポンチ絵的に書いていますけども、団地の中には診療所とか学校とか、そういったものが含まれておる場合が多いものですから、これらの施設間の連携を図り、取り組みの中心に団地があるという考え方でございます。
UR団地の地域医療福祉拠点化は、三つ、大きな取り組みを掲げておりまして、一つは地域における医療福祉施設等の充実ということで、これは必要な施設を団地の中に設置していこうということでございます。
二つ目としては、高齢者をはじめ、いろんな世帯の人に対応した住環境の整備。具体的に言うと、ご高齢の方、あるいはお子さまをお育て中の方が住みやすいような住宅をつくっていこうということでございます。
三つ目は、ソフトな取り組みとして若い人、あるいは子育ての人たちを含んだ全ての世代の人たちが、うまく暮らせるようなコミュニティーをつくっていこうということで取り組んでおります。
次からは具体的な取り組みでございます。UR団地の地域医療福祉拠点化のために具体的に必要な施設をそろえていこうということで、事例を幾つか紹介させていただいております。
神奈川県の相模台団地では、団地内に居宅介護サービス事務所とか、保育園を整備したというような事例でございます。愛知県の豊明団地ですが、団地内の賃貸施設に、病気の回復期で医師から病後児保育が可能と診断されたお子さんを一時保育する施設を誘致した事例です。
住宅を住みやすいように、つくり変えていこうということの事例です。健康寿命サポート住宅と呼んでますけども、住宅を模様替えして、高齢者の人が住みやすいようなものに仕様を変えています。
例えば、一番左の写真ですけども、風呂おけをちょっと改造しまして温風が出るような仕様にするとか、手すり、段差を解消する、こういう取り組みを行っています。
また、少し変わった取り組みとしましては、向かって右側のところですけども、東京都の板橋区にある高島平という団地ですけども、ここではサービス付き高齢者住宅を住宅の空き家を使って整備しました。空いてる部屋と団地の1階にサービス拠点を設けて、飛び飛びにサービス付き高齢者住宅ができる。こんなことも取組んでおります。
また、右下のところは、5階建ての住棟には、エレベーターが設置されていない住棟が多いんですけども、こういったところに、あと付けでエレベーターを設置した事例でございます。
コミュニティー形成の関係ですけども、先ほども三重県の志摩の事例でいろいろお話がありましたように、ハードだけ対応してもなかなか地域コミュニティーの形成というのは難しいということで、いろいろなイベントを行っております。
それぞれ団地にお住いの方、ボランティアの方、学生さん、いろんな方に声をかけまして団地の中でお祭りを行ったり、大学生ボランティアの方に学習教室を手伝ってもらったり、家庭菜園をやったり、いろいろな取り組みを行うことによって、団地内のコミュニティー活動を活性化することに取り組んでおります。
一つの団地で取り組んだ事例です。東京の日野市のに多摩平団地です。この団地は昭和33年、今から60年ぐらい以上前に管理開始した団地で、もともと2800戸ぐらいあった団地を平成9年度から建て替えまして、地域に必要な施設をたくさんそろえた事例です。
例えば病院関係でございますと、ちょうど団地の横に、日野市さんの市立病院があって、その横に回復期の多摩平の森病院をつくることによって連携するような形をつくり出したり。あるいは地域包括センターを誘致したり、あるいは日野市の医師会さんの建物を持ってきたりというような取り組みをすることによって地域で、お住まいの方が住み続けられるような状況をつくり出しているというような取り組みの一例でございます。
このように、いろいろなものをそろえて、つくり出している状況です。医療関係以外にも、コミュニティー関係の施設、あるいは店舗。生活支援サービスと呼んでいますが、具体的にはイオンモールを誘致したり、そういったことをやることによって、今までは住宅だけしかなかったものが、このような形でいろいろなものがそろうことによって地域で住み続けられる環境を整備してきたというようなものでございます。
最後になります。これは少し変わった取り組みです。団地の中にあるお店の中にネコサポステーションと言いまして、クロネコヤマトの宅急便を扱っているヤマト運輸さんと協力して、団地に宅急便の集配所プラス高齢者の方が必要になったときに、お助けするようなサービスを展開する拠点を設けるような取り組みも行っております。
これは子育て系の取り組。団地にお住まいの方々に、お互いの子育ての中で1時間とか2時間とか、こまぎれの時間をお互いに相互で融通し、助け合うことを、SNSを使って行う仕組みを取入れており、ワンコインで子どもの面倒をお互いに見合う、こんな取り組みも子育て世帯が多い団地で行っています。
これは全国の団地に導入し始めているんですけども、生活支援アドバイザーという、これもソフトの取り組みですけども、お年寄りの困りごととかを相談する窓口を設置し始めておりまして、いろんな悩み事とか、電話による安否確認とか、お年寄りの交流を促進するためのイベント等を行ったり、こういう取り組みも行っております。これは全国に80名ぐらい配置しておりまして、将来的には数を増やしていこうと考えておるところです。
これはポイントを使った形でお互い助け合うということで、団地のボランティア活動に参加する方を募って、ポイントを差し上げることによって、そのポイントによって、例えば家賃が少し減額するとかですね。そういったことを取り入れるようなことも始めております。
あと、高齢の方、あるいは子育て世代の方に対しては、要件を満たせば家賃の割引等が受けられるということも行っております。
ざっとご紹介しましたが、団地の地域医療福祉拠点化という取り組みを平成26年度から始めており、全国に1000戸以上の団地が200ちょっとあるのですが、2020年までに100団地、そして2025年、団塊の世代の人たちが後期高齢者になる時期までには150団地ぐらい、地域の地域医療福祉拠点化ということを図っていきたいと考えております。
URは、医療関係、介護関係の専門家そのものではないので、街づくりに取り組んできた中で培ってきた地域のステークホルダー、地域関係者をつないでいくという点に力点を置いて、今後、取り組んでいきたいと考えておるところでございます。
本日はご清聴ありがとうございました。
【討論】
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地域に寄り添う医療と
福祉・介護行政との連携を考える
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〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
本日のテーマは「地域に寄り添う医療と福祉・介護行政との連携を考える」ということで、いろんな切り口があります。過疎地域もあれば、高齢化が下がってくる所、都市部でUR住宅をどうするとかという話もある。その背景には、急激な人口変動や高齢化があります。
人口減とだけは言えないのでしょうが、人口構成の急激変化と高齢化は根本的に世の中の仕組み自身を変えていかなきゃいけないわけで、大変なことなんだろうと思います。
もう1つのテーマは、地域包括ケア病棟をお持ちの病院関係の皆さまがきょうは、たくさんお集りいただいてるんですが、実はその病院のあり方というのを根本的に考えないといけない。外来部門と入院部門を持っていて、ドアを開ければ患者さんがいらっしゃるという状況にはないんですね。
病床利用率は80%を割っています。病院経営は、儲かるか儲からない以前に、経営の継続ができなくなってきているのは明らかです。
例えば今の利益では新しい建物が立て替えられないわけですね。日本の民間病院は50年後、建て替えられないかもしれない。そうした中で、中井大会長の九段坂病院が千代田区さんと組んで高齢者総合サポートセンターができたのは、一つのトピックスだと思います。
実はですね、もうスタンドアローンで病院が建て替わっていくことのほうが少なくなってきているんではないかと思います。最近の大都市部の自治体病院は医師会館とか救命救急センターとか、九段坂さん病院のように高齢者総合サポートセンターとか、いろんなものができています。
もともと地域包括ケアシステムというのは、広島県で、保健と福祉と医療を統合する。例えば町役場の保健課さんを、保健係さんを病院に持ってくる。病院につないでいく。特養をつくる。福祉施設をつくって、まあ当時の言葉では保健医療福祉を一体的に自治体病院といいますか、国保の病院が担っていって、それがいいんじゃないかと。
それは自治体病院だけの問題だったかというと、そうではない。非常に経営基盤が危ないということが一つあるんだろうと思っております。
特に人口減なのに、病床数は減らさない。人口増のところは東京都以外はほとんどないわけですから、大変これからの病院にとって地域に寄り添う医療と福祉、あるいは介護行政との連携というのは、大事な問題なんだろうということは私はそう考えていたので、このようなことで、きょうのシンポジストの発表はとてもよかったなと思っております。
まずですね、ちょっと時間の関係もありますので、中島先生の地域医療連携推進法人。大変、それ、ご苦労されたと思います。また、江角先生が、やっぱり感動的だった。
こちらに何かご質問ある方はいらっしゃいますか? マイクはあちこち立ってますのでマイクのほうにお進みいただいて。何かしゃべってくださいね。何か暑いですから、外は。ご質問ありますか?
とっても興味があると思う。地域医療連携推進法人はですね、つくるのも大変ですし、いろんなことを言う人がいて。まあ要するに、あまりコミュニケーションが取れない人が始めると、絶対に途中で駄目になるってことはよく分かっていますし。強権的な人がいると、また駄目になるってことも歴史は証明してるんだと思うんですけど。一つの病院の今後の生き方として、あると思うんですが、何かございませんか?
地域医療法人をやっている中島先生、どこが一番ご苦労されたかちょっと言いにくいかもしれませんが、お願いいたします。
〇中島浩一郎氏(庄原赤十字病院院長)
やはり、われわれとしては日本赤十字社という非常に大きな組織として参加するということに大変高いハードルがあったということ。最後、厚労省のほうでQ&Aを出していただきまして、何とか乗り切れました。
ただ、今後、日本赤十字社にしても、済生会とか、いろんな組織が地方にいろんな中小病院を持っておりますので、そういうところが今後、いろんな面で、そういう連携推進法人、組みやすくなってきたんじゃないかなと、そういうふうには思っております。
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
先生、大変だったですよね。これね。大騒ぎで、大変。いろんなこと、机上ではいろんなことを言うんですけど、大学も絡みますし、行政もいろいろ複雑に絡みますし、参加病院で全国チェーンでやっているような病院が動き出すと、また意見がまとまらなくてですね。大変なご苦労だと思います。
では次に、江角先生。とてもよかったと思ってるんですけど、こういう人がいっぱいいるといいなと思ってるんですが。
私が一番、感動したのは中学生にボランティアをさせると志摩高校に残る。これね、すごい話ですね。もう、みんな、指くわえて待ってるんじゃなくて、やっぱり誰かが何か、誰か1人、かぶき者がいないと、うまくいかないのかどうか分からないんですけど。ご質問はございませんか?
自治体病院協会の会長が一番前に座っております。先生。何か、頑張れとか言ってやったほうがいいじゃないですか。
〇小熊豊会長(砂川市立病院名誉院長)
彼だから、ああいうことができるんでしょうね。彼の金髪頭の、そういう経験を生かして、それを地域で生かす。そういうことだと思っています。
ただ、患者さんに寄り添って面倒見ろって、言われるほうも大変だよね。はっきり言うと。何も知識もない。何も分からない人に、ただ手を握っていたと。さっき言ってましたけど。そういう小さなことから始まるんだなというふうに思いました。
ただ、やっぱり、われわれ自治体病院としても、人口減の過疎地の町で、どう町づくりに関わっていくかというの、悩んでいたんですけども、江角先生のやり方が一つのやり方として参考にして広めなきゃいけないのかなというふうに思いました。
それが、それだけでいいのかどうかというのは、また別だとは思いますけど、一つの熱い印象です。何もコメントになりませんが。
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
江角先生、いかがですか? 何か、それだけじゃないだろうって。それだけですよね、みたいな。
〇江角悠太氏(志摩市民病院院長)
「僕だからできた」というふうにはしたくないと思って、常にやってるので、「大したことじゃないんですよ」というのを最後に申し上げたいですね。
結局、ただ中学校回って。結局、僕は本当に中学校から大学生、専門学校の実習を受け入れてるときに、僕の業務の中の30分しか彼らには使ってないです。あとは多職種の部署見学と患者さんのところ。そして地域のケアマネ、もしくは事業者です。
ですので、それぞれがおそらく30分ずつで、全体として患者さんが一番負担がありますが、患者さんは一番喜びますと。必ず患者さんにありがとうって絶対に言われるんですね。隣で2時間も3時間も話を聞いてくれる医療者はこの世に存在しませんから。
ですので、そこがやっぱり学生の、僕らではできない、医療者ではできない、医療者としての役目なんじゃないかなというのを、とても。医療者として扱うことが、とても重要じゃないかなというのは、普段、病院で言っていること。
あとは、その事例で、やる気があるやつは来いよ。大学に授業しにいき、高校に授業しにいき、中学に授業しにいくのも、年に数回ですので、結局、年間、私が学生に使ってる時間は、まあ言っても10時間、20時間というレベルの話で。
なので、たぶん誰でも、そのぐらいの時間は持ち合わせてると思うし、実際、私が伝えてることは何のために生きるのかを患者さんから教わってねって、つないでるだけですので、たぶん誰でもできるんじゃないかなと。
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
すいません。私、お話聞いてて、あの1950年代にコミュニティーベストホスピタルという本がありまして、たぶん病院管理をやった人間なら一番最初に読む本だったと思うんですが。きょう、思ったことは、私、あんまり東京の病院にはお邪魔しないで、地方も、それも過疎の病院ばっかり行って、中島先生のところも行きました。もう、すごいところ。
あのコミュニティーベストホスピタル。コミュニティーをベースにした病院という概念は1950年代のアメリカで盛んに言われたことですけど、私はずっと、この10年間、ホスピタル・ベースド・コミュニティーなんじゃないかというふうに思っているんですね。
それは、病院は地域によって支えられてるというのが、コミュニティーベースドホスピタルの理念だったと思うんですが、もう、そんなこと言ってないでですね、病院が地域を支えてさせもらう時代になってきてるということを、江角先生の話を聞いてですね、もう強く思いましたね。やっぱり何も病気の人を診断治療したり看護したりすることだけが医療じゃないという思いが、やっぱりあるし。きょうは、よかった。
最後に、「街と恋をしよう」というがありました。地方にいらっしゃるお医者さんも、医学療法士さん、作業療法士さん、看護師さんとか、いろんな医療従事者、みんな街に恋してるんですよね。もっとストレートに出したら地域包括ケアはもっとうまくいくのかなと思って。何か、すいません。余計なこと言いました。江角先生、頑張ってくださいね。決して先生だけじゃないと思ってますし、みんな若いときはそうなんですが、年取ってくると、だんだん何か動きが悪くなってくるのかなとか思って。若いときがいいのかなと思って。若い人が、どんどんしたらいいかなと思っています。
先ほどの話で、ちょっと九段坂の話になりますけど、高齢者総合サポートセンター。普通の総合サポートセンターって、あちこちにできてるんですけど、ぜひ、九段坂病院に寄ってほしいと思います。何がいいかというと、「かがやきプラザ」といってですね、本当に掃除が行き届いている。とってもきれいなんですよ。
歌川部長にお聞きしたいのは、都市は人の心を自由にするという都市社会学で有名な言葉がありますけど。都市は人を自由にするという意味では、人に干渉されないんですが、その逆はですね、とても孤立化するという問題があります。これはフランスのパリで一番最初に言われたことで、都市は孤立化する。人間と人間の距離が遠くなって、だから、しょうがないからフランス人は犬を飼うんだって話を都市社会学で散々習ったような気がするんですが。歌川部長、その都市部の高齢者の孤立化対策は、施策として何かあるんでしょうか?
〇歌川さとみ氏(東京都千代田区保健福祉部長)
ないんですよね。簡単な答えは。やはり、少しずつ。江角先生のお話は地方の話、千代田区も東京の真ん中ではあるけれど地方の話です。やはり千代田区でも住民がばっと集まってくるのは何かというと「祭り」です。祭り。でも行政は政教分離で祭りに直接関与できないので、いろいろな形で、ちょっとずつイベントがあると支援をするというような形をとっています。
ただ、その祭りが祭りで終わってしまっているところがあって、そこは江角先生のお話を伺ってて、次にそこに出てきた人たちを次につなげるというか、そこの地域を愛するから自分は次に何かしようという行動を起こさせるところがすごいなと思いました。まあ、そこが工夫の余地なんだろうなと。
コミュニティーの希薄化というのは日本全国どこでも言われています。千代田区だけじゃなくて都心部の自治体みんな、そのコミュニティーが崩壊しているとか、隣の人が何をしてるか分からないとか言っています。
千代田の場合は、それが極端に出てるというところなので、特効薬はないんだけれども、そこは最後はお互いさまとか、最後はちょっとおせっかい焼きがいるよねという意識が、ごく自然に出てくるような雰囲気をつくっていくのを地道にやっていくしかないかなって今、思ってます。
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
はい、どうぞ。
〇江角悠太氏(志摩市民病院院長)
いつも、地方創生とか地域包括ケアで一番問題になるのが、祭りを開いても出てこないという人たちで。結局、何をしても出てこない人たちが、数パーセントいて、その人たちをどう助けていくのかというのが、いつも問題になって。民生委員がやる仕事だろってなるんですけど、民生委員も高齢化してて、結局、民生委員の跡継ぎがいないし、そんなに民生委員も暇ではないというのがあってですね。
最近、僕がやってるのが、野村証券みたいに、ちょっと暇な時間、1時間、昼休みを見つけて、病院の近くの地域から各戸訪問をしてですね、トントントンとたたいてですね、「幸せですか?」って聞くんです。(会場、笑い)
マズローの5段階欲求説をもとに、「あなたは幸せですか」って聞きにいくのを、学生と一緒にやるんです。そうすると学生、喜んで行くんです。今となっては住民も、それを待ち構えてるかのように、いつ来るの、いつ来るのって言われるぐらい。
それを糧にですね、結局、空き家がどこにあって、どこは住んでなくて、どこは住んでるかというのは自動的に、そこで情報を取ってこれると同時にですね。だいたい、今、マップをつくってるんですけど、そのタイムリーなマップをつくれるんですね。
1時間で5人で行けばですね、だいたい話が盛り上がって40分とか30分はしゃべっちゃうので、1人頭2軒しか行けないんですけど、5人行きゃ10人行けるんですね。毎日やりゃあ、3650人行けますね。10年やれば3万6000人です。10年後の志摩市の人口、だいたい、そんなものなんですね。
なので、まあ、そうやって僕と学生から始めてることが、だんだん職員に乗り移ってですね、職員120名いますので、まあ120名のうち、勤務してる70名がですね、昼休み使って30分、ちょっと1家庭ぐらい行ってこいよってやると、その10年が5年で終わるんです。というのが、まあ一つの方法論になるんじゃないかなというのを思ってます。
ちなみに、これ、結果が面白いんですけど、ほとんどの人が「幸せです」って言います。幸せじゃない人と幸せな人の境目は志摩市に家族がいるか、いないか。これで如実に分かります。
だから結局、看取りの時以外も、普段、生活している時も、結局、家族がいることと、いないことではマズローの欲求説の1段階目で止まっちゃう人と、4段階目まで行ける人が如実に。家族がいると1、2、3、ポンポンポンと飛び越えられる。買い物連れてってくれる。病院連れてってくれる。愛情がある。1、2、3、パパンと行けるんです。畑つくって孫に野菜あげてたら、孫に喜ばれて5段階目達成で幸せなんです。それがやっぱり家族の重要性なんじゃないかなというのを、普段の生活を見ていても思います。
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
山澤先生はURの取り組みについて、大都市に人が集まったから急に住宅建てて、今はみんな老人になっちゃって、何かしょうがない。やっぱり、幸せですか、やらなきゃ駄目ですかね。何か、URでみんな幸せですかって。たぶん大都市で玄関を開けて、お幸せですかっていったら、新興宗教だと間違われるかもしれないですけど。URで。
〇江角悠太氏(志摩市民病院院長)
白衣を着ていったら大丈夫です。(笑い)
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
白衣? 白衣着てると、消毒にきたかと思っちゃうかもしれないですね。(笑い)
すいません。山澤さん、何か、URとして、もうちょっと何か、ハコものをつくるのは得意なんですけど、ソフト開発というのは、何かもうちょっと、お考えになってることはあるんですか?
〇山澤正氏(都市再生機構ウェルフェア総合戦略部長)
今のご指摘にあるようにですね、5年前から地域医療福祉拠点化をやり始めたのは、まさしく、今までハコものをつくって、それで終わっていたというところ。住んでいる人が前は皆さん若かったので、いろんなことに不満があっても、うちにみんな言ってきたんですよ。
ところが、だんだん皆さん、お年寄りになってきたので、今度は逆に、こちらのほうで少し、ちょっと関わっていこうとか、手を携えてあげないと、みんな厳しいんじゃないかなというふうな状況になってきました。
じゃあ、どうするのかというところで、さっき、少し紹介しましたけど、大きな団地では「生活支援アドバイザー」という名前を付けているのですが、そういう「見守り屋さん」みたいな専門の人を少し配置しています。
また、「ウェルフェア課」という課をつくって、そこの課の人は、団地のお祭りを手伝いに行く。そういうことをして団地を盛り上げる取り組みを始めたところです。
団地の自治会の方も皆さん高齢になりまして、70代、80代の会長さんも多くて、「昔は祭りやったけど、もう今はできないよ」とか、そういう所も結構ありますので、そんなことに今、取り組み始めている状況です。
〇座長:小山秀夫氏(兵庫県立大学大学院名誉教授)
ありがとうございました。先ほど庄原日赤の中島先生が、庄原市で最大の事業所は庄原日赤だとおっしゃった。地域で一番大きい事業所が病院というのは砂川市立病院もそうですね。病院が地域の事業所で一番就業人口が多いという地域が、過疎地にはたくさんあります。そういう所でお祭りをやると、たぶん病院職員が出ないと成り立たない。
ですから、「病院祭り」というのが昔からあります。最近は地域の祭りに病院職員が全員で出て行くみたいな話にならないと難しいというような話を聞きます。
やはり、病院が地域に打って出てって、地域を下支えをさせていただくことをしていかないと、病院は生きていけないし、地域も生きていけない。
昔、こんなことを習いました。「学生街でアパートをつぶすには、風呂屋をつぶしてしまえ」。風呂屋がなければ学生街がつぶれてしまう。今は民間でも公立病院でも、病院がつぶれてしまうと地域が崩壊してしまうんじゃないかと思う。全員でもう1回、いろいろと取り組む必要があると思います。
私はいつも病院経営の話ばかりしていますが、地域がつぶれてしまうと病院も一緒につぶれてしまうので、両方とも生きていけるような方策を皆さんのお力で、ぜひぜひ、今後も続けていただいたら、いいんじゃないかと思います。
先生方の発表は、いろんな意味で、いろいろな参考になったと思います。先生方、本当にどうもありがとうございました。フロアの方、どうもありがとうございました。(拍手)
(了)
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